アガサ・クリスティー攻略作戦 第九十一回(執筆者・霜月蒼)

 クリスティーの小説攻略完了まで、あと7冊。
 今回のテキストはクリスティー文庫第90巻、『死への旅』である。


死への旅 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

死への旅 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)


【おはなし】

 世界有数の科学者たちが次々に失踪する事件が起きていた。核分裂の分野で画期的な発見をしたトーマス・ベタートンもそのひとりだった。残されたベタートン夫人オリーヴがバカンスに出ると知った情報部員ジェソップは、夫人がベタートンと接触するのではないかと疑い、監視するも、夫人を乗せたカサブランカ行きの旅客機が墜落、夫人は重体となってしまう。
 一方、同じくカサブランカを訪れたヒラリー・クレイヴンは絶望を抱え、自殺を決意した。そのときだった――彼女のもとをジェソップが訪れた。彼は言う、どうせ自殺をする気なら決死の仕事を引き受けてほしい。同じ赤毛の女性オリーヴ・ベタートンに扮して、謎の科学者失踪事件の調査に協力してほしいと……


 ジェソップが睡眠薬による自殺を図ったヒラリーに告げる台詞、「ぼくはほかの方法をすすめているんです。もっとスマートで、しかも、スリルに満ちた方法を」がすばらしい。ディック・フランシスの名作『興奮』での、「金のためにやったのではないというのなら、いったいなんのためにひきうけたのだ?」「スリルのためです」という名台詞を思い出す。アガる。これはすばらしくアガる。これは冒険小説の核心です。
 でもね。そこまでなのだ。
 本作は冒険小説=thrillerである。なのにスリルがない。サスペンスもない。
 序盤は悪くない。だが、上記の台詞がもたらす昂揚が極点であり、以降、失速してしまう。


 娘を病で亡くし、夫を愛人に奪われて絶望するヒラリーを描きながら、物語はこのジェソップとの出会いにたどりつき、死の可能性のある任務がここで提示される。とするならば、この先の物語の可能性は二つだ――
(1)主人公はジェソップでありヒラリーは消耗品として物語の途中で命を落とす
(2)ヒラリーは決死の任務を生き延びる
 どちらかだろう。クリスティーのスリラー作品は陽性の消閑小説ばかりであるから、当然本作も(1)ではない(クリスティーのスリラーを知らずとも、読者は自動的に(2)だと思うだろう、(1)はそうした期待を裏切ることで衝撃を生み出すプロットだ)。
 つまり「ヒラリーは最後まで死なない」というのはほぼ確定しているといっていい。
 一方で絶望を胸に巣食わせたヒラリーの旅路を描く序盤は静かな緊張感をたたえていて、つまりヒラリーの自殺願望はリアルで深刻なものとして描かれている。いわば、失敗した結婚が失敗した人生を意味するメアリ・ウェストマコット作品のモチーフが、ウェストマコットの気配を薄く匂わせるタッチで描かれているわけだ。
 ということは『死への旅』の序盤が暗示するのは「リアルな自殺願望をもつ主人公が最終的には生き残る物語」である。そうであるならば、物語は主人公の自殺願望の克服を描かなくてはならないはずだ。最終的に自殺願望が克服されない物語もありうるが、いずれにせよヒラリーの自殺願望は興味の中心になければならない。たとえば自殺願望を持つ情報部員の冒険行を描くディック・フランシスの傑作『血統』のように(ちなみに『血統』では、主人公の自殺願望が最後まで持ち越され、ラストシーンでのすばらしく簡潔で、それゆえにすばらしく感動的な2行が訪れる)。
 しかしヒラリーは自殺願望をほんの10ページかそこらで忘れてしまっているのである。さらに10ページ進むと、内面の葛藤もなしに自殺願望を克服してしまっている。任務のために単独行が開始されれば、彼女が歩む北アフリカの町の風景がエキゾティックに美しく描かれ、彼女が宿泊する高級ホテルの食堂が楽しげに描かれる。ヒラリーはバカンスを楽しんでいるのだ!
 これがサスペンスだったら《ちぃ散歩》はショッカーである。


 それでも彼女に危機が迫ればサスペンスは生まれるはずだ。
 中盤以降、ヒラリーはとある秘密施設に潜入、そこの住人たちとともに事実上幽閉される。ところが彼女はそこにただ住むだけだ。おまけにアフリカのただ中であっても快適な建物で、食べ物もおいしく、気の利いた洋服さえ支給されるのだ! ヒラリーも口では「ここから逃げ出すことはできない」と言うが、言うだけで何の行動も起こさない。
 監禁生活はろくろく描かれず、物語の視点はヒラリーを探すジェソップらに切り替わって、彼らの会議が代わりに描かれる。だがヒラリーの居場所も境遇も読者は知っているわけだからサスペンスは生まれない。会議の描き方にしても会話ばかりで心理描写はゼロだし、会議の結果を受けた救出作戦の詳細も描かれず、つまり中盤から終盤を占めるのは安全な場で展開する会話だけなのだ。


 そもそもヒラリーはすべてにおいて受け身であって(任務自体がベタートン夫人を装って敵の接触を待ち、潜入するというものであるにしても、施設に無事潜入した段階で任務は第二段階に入るはずではないか)なんら行動を起こさない。彼女はただ救いの手を待つだけである。のんびりと。
 サスペンスというものは、主人公の生が近い将来において決定的に破壊されるという(究極的には死への)予感によって生み出される。本作の場合、物語が中盤をすぎると、そんな予感は消え失せてしまうわけである。これは「死への旅」でも何でもない。ただの有閑夫人の旅だ。


 クリスティーは演劇である、と何度も書いた。それは、さりげない動作を三人称的に描くことで、その多義性を見事に活用したことと、会話の巧みさとに集約できるだろう。それが例えば『杉の柩』のような傑作を生んだ。言い換えるとこれは、意識的に「心理」を書かずにおく、ということでもある。エルキュール・ポアロは「心理的探偵法」を主張するが、それは裏返せば「見えない心理を行動から読み取る」ということを意味する。心理に関する意識的な言い落とし、つまりは「心理を書かないこと」こそが、クリスティーの巧さだった。
 クリスティーの決定的な誤りは、同じ流儀を冒険小説にも適用したことにあっただろう。冒険小説/活劇小説は、つきつめれば心理小説であるからだ。


 アクションの興趣によって読ませる小説は、そのアクションを起こす主人公の内面を描くものなのだ。人間の身体の動作を言葉で描写しても挨拶に困る。例えばオリンピックの床運動の演技をいちいち即物的に描写した文章を想像してみるといい。まして現在では、アクションをアクションそれ自体として描くのに優れたメディア(映画、マンガ、アニメ)があるから尚更である。
 冒険小説におけるアクションは、そこに至る恐怖や怒りや戦術などの思惟、それに因る痛みや怯懦や罪悪感などを通じて描かれる。夢枕獏の『餓狼伝』で殴り合いがどんなふうに描かれているのかを見ればいい。冒険小説/thrillerを駆動するのは極限状況における感情と心理の力学なのであり、冒険は主人公の脳内にあるのだ。冒険小説において重要な「敵」もまた、主人公の感じる脅威や恐怖を通じて描かれるからこそ説得力を持つ。ディック・フランシスの『度胸』『大穴』『査問』『利腕』『証拠』を見よ。
 冒険小説最大の論客・北上次郎は、冒険小説における「肉体性」を重視したが、おれが言っているのも同じことだ。小説というのは言葉で紡がれるものであるから、「肉体性」は、視点人物の「感覚/心理」を通じてしか描けない。


 クリスティーのスリラーが本質を欠いた空疎なものであるのはそれゆえだ。道具立てだけがあり、心理がない。背景はすべて台詞で説明され、恐怖も脅威も描かれない。アクション描写は状況と動作の説明以上のものではない(『茶色い服の男』の銃撃戦を参照)。そもそもリアルな死の予感が描かれたのは後にも先にも『NかMか』と『死への旅』の序盤くらいだろう。
 こうしたクリスティーの欠点は、スリラー以外にもみられる。主人公の恐怖や不安を主眼にしつつも、物語の主軸がもっぱら登場人物たちの物理的なアクションに置かれたミステリ――小説版「三匹の盲目のネズミ」――も、がちゃがちゃするばかりで小説としては味わいを欠いていた。
 それでも『茶色い服の男』のような初期作品が読めるのは、そこに非日常の冒険への昂揚という心理があるせいだろうし、それは「スリラーを書いてる私」というクリスティー自身の昂揚を映したものだっただろう。『なぜ、エヴァンズに頼まなかったのか』や『NかMか』の美点はミステリとしての美点だった。『死への旅』の数少ない美点もミステリ的なところにあり、それはまずまずの満足感を与えてくれる。

 
 ここでおれは思うのだ。
 メアリ・ウェストマコットがスリラーを書いたなら、もっとずっとすばらしい作品が生み出されたのではないかと。


興奮 (ハヤカワ・ミステリ文庫 (HM 12-1))

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