アガサ・クリスティー攻略作戦 第四十七回 番外編2(執筆者・霜月蒼)

 ついにミス・マープルものを読了し終えた。われながらびっくりである。
 『鏡は横にひび割れて』の回で記したように、わたしはいまではミス・マープルのファンとなっている。なんとね。中期以降のエルキュール・ポアロものの作品としての見事さには舌を巻くほかないけれども、『ポケットにライ麦を』以降の《復讐の女神》ミス・マープルのカッコよさの前にあっては、ポアロの影はいささか薄い。

 ポアロ編の総括にならって、ミス・マープルものをここで総括しておきたい。前回も述べたとおり、以下はあくまでわたしが個人的趣味で記すものであるから、わたしという読み手の規準と、読者各位の規準との相性をご勘案のうえ、今後の読書の参考にしていただければと思う。

 あいにくとミス・マープルものの長編は12作しかないので、ベスト5くらいにとどめないと意味ないですね――


 1『ポケットにライ麦を』 2『鏡は横にひび割れて』 3『カリブ海の秘密』
 4『書斎の死体』 5『パディントン発4時50分』


 『ポケットにライ麦を』と『鏡は横にひび割れて』のどちらを上におくか、というのは猛烈な難問である。正直、どっちが上でもかまわない。
 『鏡は横に〜』は、わたしが偏愛する「犯罪悲劇」の傑作のひとつとして、例えば結城昌治の『幻の殺意』、ロス・マクドナルドの『縞模様の霊柩車』、マーガレット・ミラーの『狙った獣』、ローレンス・ブロック『暗闇にひと突き』、河野典生『他人の城』などなどが坐する《悲嘆の罪の殿堂》に新たに加えたい名品だと考えている。


 だが、いまの気分では『ポケットにライ麦を』を上に置きたい、という、ただそれだけのことだ。悪を誅するヒーローとしてのミス・マープル像が確立した重要性、その登場シーンの身悶えするようなカッコよさ、幕切れの悲しみと、そのなかから立ち上がる揺らがない正義への意思、そのあたりの――まるで現代の作品のような!――鮮烈さが効いた。
 ここでミス・マープルが仇討ちのために立ち上がる娘の死が、事件の全貌のなかでは重要度が非常に低いものであることが、ミス・マープルの《ネメシス》ぶりを鮮やかにしていることは重要だろう。あの娘は(言葉は悪いが)虫ケラのように殺される。「ほかならぬ彼女を殺す」という必然性などまるでない。単に邪魔だったというだけである。作中でも、生きている彼女の描写は少ないし、ちっとも好意的ではない。
 だからこそ、その死に対するミス・マープルの怒りが大きな意味を持つ。不器量で不器用でつまらない小間使いと多くのひとは見なすかもしれないが、彼女の命も同じ一個の命であり、そんな彼女を大事に考える者もいる。「そこらへんの人殺し」に正面から相対する姿勢は、ミステリという小説の根幹をなし、ずっと現在までつながってゆくものでもある。ラストの悲しみまで含め、これは非常に見事な作品です。とかく富裕層に偏りがちだったポアロものに対して、市井の人間の死を扱う頻度の高かったミス・マープルものの核心を描いた作品だとも言える。


 『カリブ海の秘密』は、そんなふうに『ポケットにライ麦を』で発見されたミス・マープルのヒーロー性を追求し、「ヒーロー=ネメシス」として完成させた傑作。掛け値なしにカッコいいです。異常な存在感を『復讐の女神』で発揮することになるラフィール翁の登場作としても無視できない。『パディントン発4時50分』も、同じくヒーローとしてのミス・マープルもの。無敵のメイド、ルーシー・アイレスバロウ(たしかに彼女のことはフルネームで呼びたくなりますね)の魅力も込みで推します。


 そして『書斎の死体』は、ハッピーでユーモラスな初期作品の代表として。『動く指』の洗練も好きですが、ドナルド・E・ウェストレイクばりにミステリの定型を徹底して裏切りつづけることで笑いと物語の興趣を生む手口は、「ミステリを知り尽くした騙しの天才」クリスティーの才能が、いつもとは変わったかたちで、しかし十全に発揮されたものだと思うのです。


 さて最後に、ここまでの作品を総合してベスト10。


 1『カーテン』  2『五匹の子豚』  3『ポケットにライ麦を』
 4『白昼の悪魔』 5『鏡は横にひび割れて』 6『カリブ海の秘密』
 7『死との約束』 8『ABC殺人事件』 9『書斎の死体』
 10『杉の柩』


 『カーテン』のダークな鋭利さ、『五匹の子豚』の異常なまでの完成度は、いまのところ無敵。とはいえ、『五匹の子豚』と『ポケットにライ麦を』(or『鏡は横にひび割れて』)を入れ替えようかと2分くらい迷ったのは事実です。
 3位と5位は入れ替え可能。前述のように、いまの気分は『ライ麦』に傾いている。
 前回のベスト10と比べると、『死との約束』と『ABC殺人事件』の順番が入れ替わっている。これは読後、時間が経つにつれて、『ABC殺人事件』の速度によるインパクトが薄れ、『死との約束』の物語の巧みさの印象が勝ったため。『ナイルに死す』を十傑から外したので、そのぶんも『死との約束』に上乗せした、ということもあります。
 新たに入った『ライ麦』『鏡は横にひび割れて』『カリブ海の秘密』『書斎の死体』に押し出されたのは、『物言えぬ証人』『アクロイド殺し』『マギンティ夫人は死んだ』『ナイルに死す』の4作品。
 『物言えぬ証人』のコメディ味は、もっとタイトな『書斎の死体』で代表させます。『アクロイド殺し』は、そのニューロティックな味わい含め、正直捨てがたいところですが、ぼくの関心が「トリックメーカーとしてのクリスティー」から移ってしまっているので、そのあたりは『オリエント急行の殺人』あたりもひっくるめて『白昼の悪魔』に包含。
 『マギンティ夫人は死んだ』のハードボイルド的で「民主的な正義の味わい」は、ミス・マープルものの多くで、じつは描かれていることを知りました。ゆえに『ライ麦』『鏡は横に』『パディントン』あたりをもって代えました次第。


 いや、それにしてもミス・マープル・シリーズがこんなにおもしろいとは思わなんだ。たった12作なのに、その3分の1が十傑に入ってしまったのである。
 そして次週より、いよいよトミーとタペンスの長編に突入だ。『秘密機関』は『スタイルズ荘の怪事件』の次に発表されたクリスティーの長編第二作である。
 当初は発表順に読むべきだったかと反省もした本攻略作戦だったが、ぼくとしては、折々に若きクリスティーの筆致に触れて気分をリフレッシュできる現行のやりかたは悪くない。だって『象は忘れない』『復讐の女神』『カーテン』なんてあたりのヘヴィな後期作品ばかり延々と読む、なんてのは、気持ちもヘヴィになりそうではないですか。