アガサ・クリスティー攻略作戦 第三十四回【番外編】(執筆者・霜月蒼)

 本コラムは、アガサ・クリスティー作品を早川書房の《クリスティー文庫》の第一巻『スタイルズ荘の怪事件』から順番に読んでゆく、というものである。となると、前回ご紹介した33巻『カーテン』の次の34巻は『ブラック・コーヒー〔小説版〕』をとりあげねばならない。だが同作、クリスティーの戯曲として名高い『ブラック・コーヒー』(クリスティー文庫65巻)をチャールズ・オズボーンがノヴェライズしたもの。読むとしても戯曲版を先にすべきであるし、小説版はあくまで戯曲版を読むときの副読本と見るべきでしょう――少なくとも「アガサ・クリスティー攻略作戦」的には。
 なので第34巻『ブラック・コーヒー〔小説版〕』はスキップさせていただきます。


 となると、第35巻『牧師館の殺人』でミス・マープル長篇に突入――なのだけれども、過日、酒席で北上次郎氏がこう言うのである。
「おまえさ、攻略作戦終わったときにベスト10つくってくれよ。いきなり全部は読めないからさ」
 ミステリについて論じる者としてのおれを育ててくれたのは北上次郎御大である。おれは氏の文庫解説を小学校のときに読み『冒険小説の時代』を中学のときに読んで、いまここにいるわけであるから要望には応えねばならぬ。
 それに、北上翁以外の読者の便にも立つだろう。素敵な提案だ。


 そんなわけで、ポアロ長篇33作から自分の趣味全開でベスト10を選んでみた。こんな感じである。


 1『カーテン』 2『五匹の子豚』 3『白昼の悪魔』 4『ABC殺人事件』
 5『死との約束』 6『もの言えぬ証人』 7『杉の柩』 8『アクロイド殺し
 9『マギンティ夫人は死んだ』 10『ナイルに死す』


「霜月蒼」という名に馴染みがあって、「こいつとオレは趣味が合う」というかたは、このリストをプリントアウトか何かして本屋に走るように。一方で「誰だよこいつ」とか「霜月蒼のレビューは信用しないことにしてる」というかたは、この10作を後回しにするとよろしい。


 ふりかえれば、ポアロもの第15長篇『ナイルに死す』から第25長篇『葬儀を終えて』(泣く泣く落として次点の次点)までの充実ぶりは驚嘆に値する。
 上の10作中6作がその時期の作品である。
 マイルストーンとなるのは、「殺人にいたるドラマを充実させ、そこで読み物としてのリッチさを醸成するとともに稠密な伏線の迷彩とする」という形式の皮切りとなった『ナイルに死す』(第10位)と、その発展形として「ドラマ部分に細密なダブル・ミーニングを仕掛けて、謎解きと小説の読み解きを同時に達成する」形式を生み出した作品『杉の柩』(第7位)の2作であろう。
 『杉の柩』については、エリノアという「凛とした女」を生み出したという意味でも重要で、そういう女性は、以降もヒロインとして『五匹の子豚』や『ホロー荘の殺人』などで印象的な役割を務める。一方で『ナイルに死す』は、「不遇な女の悲劇」の萌芽のような人物も登場した作品とも言えて、これも『ホロー荘の殺人』や『満潮に乗って』の物語=犯罪の支点となっている。


 そんな「殺人にいたるドラマ」と「ダブル・ミーニングの物語の読解」の両者の要素を融合させて、一片たりとも無駄がなく、人間ドラマとしても印象深いものとなったのが、現時点で完成度ではベストだと考える『五匹の子豚』(第2位)だ。
 クリスティー論のたぐいをみると、本作が「過去の殺人」テーマの作品の嚆矢、というふうな言われかたをよく見かけるのだが、「過去の殺人」という形式うんぬんよりも、「ダブル・ミーニングのドラマ」を活かしやすい素材としてスタティックな「すでに起きた事件」を選んだと言うべきではあるまいか。この時点でクリスティー自身が「過去」というモチーフに文学的なこだわりを持っていたとは思えない――『象は忘れない』の段階では意識していただろうことはすでに書いた。
 ともかくも、無駄が一片もない謎解きミステリでありつつ、見事に印象的な人間ドラマである『五匹の子豚』は、すべてのミステリ・ファンに読んでいただきたい。これを気に入るにせよそうでないにせよ、ここにあるのはミステリのひとつの達成であるからだ。


 と、冷静に考えはするものの、個人的な趣味では『カーテン』(第1位)にまさるものはない。
 ベスト1が最終作ってどうよ?とは思うが、ロス・マクドナルド結城昌治の暗い犯罪悲劇を愛する身としては、『カーテン』の暗く不穏な空気は忘れがたい。
 ただ暗いだけではなく、その底で苛烈なまでの正義への意志がウォーキングするベースラインのように脈打っていること、ミステリとしても大胆不敵なはなれわざに挑み、説得力をもって成功させていること、そして最後の最後で峻烈な正義の光が一閃して闇を払うところまで、間然とするところがない。
 クリスティーらしいか? と問われれば微妙なのかもしれない。けれども、この清冽な健康さが、クリスティーの美点をぎりぎりまで精錬すると残る核のようなものだとおれは思う。


 『白昼の悪魔』(第3位)と『死との約束』(第5位)は、野心作『ナイルに死す』をきりりと研ぎ澄ました洗練形として愛する。もちろん『ナイルに死す』の比類ない芳醇な味わいを大いに評価したうえでのこと。なにせ『ナイルに死す』って、「殺人なんて起きなくても別にかまわないよなあ」と思わせるほどに、前半のドラマがおもしろいのである。ここでおれは、クリスティーの評価を大きく変えた。
 『死との約束』は、『ナイルに死す』の明らかに延長線上にある。インパクトの強烈なイヤなババア造型が忘れがたいのと、ところどころの絶妙なコメディ風味、そして盲点を突くトリックの瞬発力で『ナイルに死す』より上に置いた。『ナイルに死す』はミステリとして些か弱いところは否めないので――ただし『ナイルに死す』のトリックは、以降も繰り返し変奏されるので、そういう意味でも、やはりこれは看過できない。
 『白昼の悪魔』は、それを『死との約束』以上に研ぎ上げて、ユーモアも削り落とした結果、刃のごとき殺気と鋭利さを放つにいたった傑作だと思っている。トリックも、クリスティー的なトリックの洗練形の極致ではあるまいか。
 鋭利さは全編に及んでいて、解決にいたるプロセス、犯人が真の貌を現わす場面など、終盤のクリスピーなリズムの瞬発力に呼吸を奪われる。『白昼の悪魔』と『死との約束』のどちらを上に見るかは嗜好によるような気がするが、ノワールやクライム・ノヴェルの血を基本に持つおれは『白昼の悪魔』の犯人のおそるべき哄笑と、終盤の展開の無慈悲なまでのスピード感を評価したい。


 ファンのあいだで人気の高い『杉の柩』は、じつは初読時にはぴんとこなかった作品だった。だが、エリノアの物語に仕掛けられた伏線の神経症的なまでの細密さと、それを活かす構成の妙に気づいた瞬間に感動したのである。この趣向は、『三幕の殺人』で最初に試みられたものだ。

 『ABC殺人事件』(第4位)と『マギンティ夫人は死んだ』(第9位)は、クリスティーを単なる「守旧的な謎解きミステリの書き手」と見なしていた己を大いに悔いた作品だった。
 前者はトリックを仕掛けたノンストップ・サスペンスとして21世紀にもじゅうぶん通用する疾走感をそなえているし、後者は「犯罪をヴェネチアン・ガラスの花瓶から取り出してみせた」ハードボイルド・ミステリのスピリットを秘めた作品。
 『マギンティ夫人』には瑕もあるのだけれど、最終章でのノワールめいたダークなカタルシスがどうしても忘れがたい。


 歴史に残るトリックを擁する『ABC殺人事件』『オリエント急行の殺人』『アクロイド殺し』(第8位)といった作品は、すでにトリックを知ってしまっていて読んだ(初読時にはトリックを知らなかった『オリエント急行』も、何せ読んだのは小学校の頃)ので、点が辛くなってしまっているのは認めざるを得ない。
 だが『ABC』は前記のようにサスペンスとしても評価でき、『アクロイド殺し』は全編を覆う不穏な気配と、作者vs読者のフェアなゲームとしてのプロセスを厳密に踏み、それゆえに「ミステリ」という小説形式をまったく別のフェイズに移行させた点が、いま読んでも素晴らしい。『オリエント急行の殺人』も好きな作品なのだけれど、10作という枠を置くと、とにかくトリック一発一直線!というストイシズムが(そんな著者のアティテュードへの感動をもたらすのと同時に)作品をやや味気なくしている点がマイナスに働いてしまう。


 といったあたりは、まあ順当だろうと自分でも思う(『カーテン』と『マギンティ』は微妙かな)。
 明らかに10作のなかで浮いているのは『もの言えぬ証人』(第6位)だろう。これを十傑に挙げるひとはあんまりいなそうな気がする。
 ちょっと長すぎるとか、トリックが推理不能とかいろいろと瑕っぽいところもあるんですが、ドナルド・E・ウェストレイクやカール・ハイアセンを偏愛するコメディ・ミステリ好きとして推しておきたかった。だって、ハイアセンやウェストレイクを読んだときに反応する脳の部分が、クリスティーで反応するとは思わなかったんだよ!
 犬をめぐるポアロヘイスティングズのかわいらしさ、食えないばあさん描写の冴え、スピリチュアル(笑)な霊媒姉妹、そして解決場面で明かされる「アレ」。随所で笑わせてくれました。隠れた傑作だと思います。


 十傑からはみだしちゃったよ……
 と、惜しい気のした作品の筆頭は『三幕の殺人』か。読んでいる最中の退屈さ、物語の生彩の欠け具合がどうしても無視できなかった。但し、それが仕掛けのもたらす必然であることがわかった瞬間の驚愕は猛烈なものだったことは書いておきたい。「アガサ・クリスティー」という作家のすごさを思い知ったのは『三幕の殺人』によってだった気がするのである。
 「読者を騙す」ことに、テキストのすべてを奉仕させ、技巧を凝らすという流儀。それは、トリック一発!のジョン・ディクスン・カーや、エクストリームに論理を走らせ、膨張させて「小説」としては畸形の域に達した初期エラリィ・クイーンなどと、根本的にちがうアプローチだ。
 これこそがクリスティーらしさなのだろう。


 例えば『アクロイド殺し』。『三幕の殺人』。『杉の柩』。『五匹の子豚』。いずれもドラマとミステリとが渾然としている。クリスティーを継いだ作家たちの作風である「小体のミステリ仕掛けをファットなドラマで覆う」作法と、これは根本的に異なる。
 「トリック」や「ロジック」といったユニットを、とりあえずのストーリーに搭載したカーや初期クイーンとも違う。ドラマを織り成す糸自体が、ミステリ仕掛けを細く細く周到にほぐして紡いだものとでも言えばいいか。
 『ポアロのクリスマス』や『愛国殺人』、『アクロイド殺し』や『オリエント急行の殺人』を見れば、クリスティーは「ミステリ」という小説の機能や、読者の固定観念に自覚的であったこともわかる。クリスティーはそういうものを逆手にとる。しかし、例えばアントニー・バークリーのようにミステリの形式の外部に出てしまうのでなく、あくまでミステリであることを遵守しながら、逆手にとる。逆手にとることでミステリとしての驚きを演出する。
 それがクリスティー(のポアロもの)であるという印象を現時点では抱いている。


 果たしてミス・マープルものはどうなのか。
 何を隠そうミス・マープルものを私は一冊も読んだことがないのである。

カーテン (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

カーテン (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

五匹の子豚 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

五匹の子豚 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

白昼の悪魔 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

白昼の悪魔 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

ABC殺人事件 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

ABC殺人事件 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

死との約束 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

死との約束 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

もの言えぬ証人 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

もの言えぬ証人 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

杉の柩 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

杉の柩 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

アクロイド殺し (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

アクロイド殺し (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

マギンティ夫人は死んだ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

マギンティ夫人は死んだ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

ナイルに死す (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

ナイルに死す (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)