アガサ・クリスティー攻略作戦 第二十四回(執筆者・霜月蒼)

『マギンティ夫人は死んだ』クリスティー文庫)を読みたまえ、と杉江松恋がわたしに言ったのは、1989年の冬のことである。わたしは大学一年、杉江松恋は三年生だった。わたしがサークルの同人誌に私立探偵小説を発表した翌月だったと記憶している。
 わたしが書いた小説の感想を述べてから、杉江松恋は言った、
「要するにおまえは『(事件の焦点となる人物の)伝記』を書きたいんだな」
 そして本書を読めと言った。力強い断言だった。そこでわたしは即座にこの本を買った。だが、あらすじなどに惹かれるものがなく、わたしは本書を読む機会を逸した。
 そのまま20年が経過した。

マギンティ夫人は死んだ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

マギンティ夫人は死んだ (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)

【おはなし】
 田舎町で通いの掃除婦をしていた寡婦マギンティ夫人が撲殺された。ほどなくして若い男が逮捕され、死刑判決を受けた。
 だが事件を担当したスペンス警視は退職を目前にして悩む。どうしてもあの男が殺人犯だと思えないのだ。かくしてスペンスは旧知の名探偵エルキュール・ポアロのもとを訪れる。警視への敬意と友情から、ポアロは無償での事件の再調査に乗り出した。
 ポアロが被害者の家で見つけた夕刊紙から切り抜かれていた、かつて陰惨な事件に関わった女性4人をとりあげた記事。この4人の誰かが町にいるのではないか? これが事件の原因なのでは?


 なんかクリスティーっぽくない。そう思った。けなしてるわけじゃない。静かだが着実なドライヴ感、派手ではないが抑制された緊迫感、最初は小さく曖昧だった謎が物語の進行とともに大きく明確に成長してゆくダイナミズム。それがこれまでのクリスティーの風合とちがう気がした。別の何かを思わせるのだ。
 ああそうか、と、やがて気づいた。読み心地がハードボイルド・ミステリみたいなのだ。
 本書でポアロがいる場所は、いつものように閉じられた空間(屋敷や避暑地)ではなく、彼は事件の舞台となった町を終始移動しつづけ、関係者を訪ね歩いてゆく。滞在する下宿屋はメシがまずくて居心地が悪いので(このへんは本書の笑いどころ)、腰を落ち着ける瞬間はない。相棒もいない見知らぬ土地にいるから視点はポアロに固定されるし、その内面も前面にフィーチュアされる。読者はポアロの慨嘆や印象や思考を共有し、すべてを彼の眼を通じて見て、彼とともに空間を移動する。

 
 わが国のもっともすぐれたハードボイルド・ミステリの書き手のひとり・結城昌治(『暗い落日』『死者たちの夜』『エリ子、十六歳の夏』など)は、名エッセイ「一視点一人称」で、ハードボイルドの視点=叙述形式こそが、もっともフェアな謎解きミステリを書き得るスタイルだと述べている。すべての事物が、探偵の五感を通じて読者に伝えられるからである。
  例えばビル・プロンジーニの作品(『名無しの探偵事件ファイル』など)を見ると、その主張はよく理解できると思う。そして『マギンティ夫人は死んだ』もこの系列に加えられるべき作品なのではないか。
 クリスティーがハードボイルドの形式を意図していたかどうかは不明だが、展開はハードボイルドのスタンダードを踏んでいる――冒頭で退屈を持て余したポアロがロンドンをさまよう場面をすぎると、依頼人(スペンス警視)がポアロを訪れ、「官憲が大っぴらに捜査しにくい事件」の調査を頼む。ポアロは関係者を単身で訪れ、それぞれの「物語」を収集してゆき、彼らの肖像を描きつつ、彼なりの印象を内面でつぶやく。まさに定型である。


 このへんで大急ぎで言っておいたほうがいいかな――
 「ハードボイルドっぽい」というのは、ポアロが拳銃を振り回したり粗暴なセックスに溺れたりギャングを殴り倒したりするということを意味しない。そう思ったかたがいたとすれば、そのハードボイルド観は間違っている、と申し上げたい。
 ハードボイルド・ミステリは、公的な権威を持たない一個人が、権威の網の目から漏れた犯罪を、街路に立つ等身大の人間の目線から見つめ、等身大の人間たちの物語を収集していくことで真相を見出す、というプロセスを踏んだ末に、彼/彼女の私的倫理と職業倫理と法体系のせめぎあいが浮き彫りとなる物語と要約できる。
 ときに暴力性が召喚されるのは、権威の後ろ盾を持たない法的には丸腰に近い私人が犯罪の培地に踏み込む際の武装の手段にすぎない。暴力は必須条件ではないのだ。


 『マギンティ夫人は死んだ』のハードボイルドっぽさは、ここで描かれる人物たちの多くが(とくに被害者と容疑者を見よ)、これまでクリスティー作品がほとんど扱ってこなかった「裕福でないひとびと」だからでもある。ゆえにポアロは屋敷に腰を据えて医師や使用人や貴族の話を聞くのではなく、ごくふつうの生活者たちの家を訪れ、町を徘徊する。それが物語に、「いわゆる本格ミステリ」のスタティックで冷たい空気とは異質の、体温をともなう動的な空気を与えてもいる。


 もっとも、例えばF・W・クロフツの作品のように、リアルな刑事がごくふつうの生活者のなかで捜査する同時代の英国ミステリもあった。捜査のプロセスという意味では、ヒラリー・ウォーのような警察小説と重なりもする。けれどフレンチ警部もウォーの主人公たちも警察官である。その違いは大きい。ポアロは――彼だって私立探偵なのだ――ひとりで、権力の後ろ盾もなく、平凡なひとびとの物語に地道に耳を傾ける。そもそも本書での繰り返しのギャグのひとつが、「わたしはエルキュール・ポアロです」と名乗っても、名前を知っているひとが誰もいない、というものなのだ。彼は単なる私人にすぎない。
 ハードボイルド・ミステリには、「民主化されたミステリ」の側面があると言ってもいいだろう。調査する探偵も、被害者も、関係者も、同じ路上に立っている。もちろん権力者は出てくるが、そうした権力者もまた、(少なくとも探偵の主観においては)正義の手を及ぼすことのできうる同じ人間だという信念が存在している。彼らはみな、同じ義務と権利を持つ(にすぎない)市民なのだ。
 レイモンド・チャンドラーが名エッセイ「簡単な殺人法」(『チャンドラー短編全集 事件屋稼業』所収)で、クリスティーに代表される伝統的な本格ミステリを批判したのは1944年のこと。チャンドラーはハメット作品を、犯罪をヴェネティアン・グラスの花瓶から引っぱり出して街路に放り出した、という比喩を使って称賛した。クリスティーは本書を通じて、「わたしだって犯罪を上流階級の屋敷から引っぱり出して、平凡な市民のなかにほうり出すことぐらいできる」と、チャンドラーに反論したのではないか、と思えてくる。


 やはりポアロによる関係者インタビューが繰り返されるのが『愛国殺人』だった。だが『愛国殺人』は謎にとらえどころがなく(同書のミステリとしての仕掛けがもたらす必然ではある)、筆致は対象と距離をおいた戯画調のものだった。ゆえに登場人物たちも戯画の色彩を帯びる――誰もが浮世離れしており、類型的で浅薄だった。
 そんな人物相手のインタビューに興趣が生まれようはずがない。ポアロは彼らから地に足のつかない机上の理屈を聞かされるのみであり、そんな「理屈」など、要するに、真剣に読むに値しないページつぶしの文字列にすぎない(風刺として成功していれば別だが)。
 だが『マギンティ夫人は死んだ』の人物たちはちがう。彼らの声はリアルだ。だから、ちゃんと読むに値する。それを受けてポアロが漏らす慨嘆にも一本芯が通る。本書の人物たちの肖像は、これまでのポアロ作品でも屈指の生彩をそなえているように思える。ことに死刑判決を受けた青年は、いまどきのコミュ能力不足の青年を思わせて印象深い。


そんなわけだから、「伝統的な舞台だけが好き」な読者は、本書を貧乏たらしくて野暮な作品としてしりぞけるかもしれない。だが、それはもったいない。さっき言ったように、本書はポアロが出ずっぱり、ポアロのぼやきのキュートな楽しさも格別だ。つまり本書は、等身大のヒーロー、ポアロを存分に楽しめる作品なのである。
 ハードボイルドの流儀は、謎解きミステリの快楽と矛盾するものではない。ハードボイルドは語り口の名称であり、謎解きミステリは構造の名称であるからだ。このふたつは両立できる。そう、例えばマイクル・Z・リューインやジョン・ラッツのようなリラクシングなハードボイルド・ミステリのように。


 だが玉に瑕なのが、中盤に登場するミステリ作家アリアドニ・オリヴァ夫人(初登場は『ひらいたトランプ』)の存在だ。いや、彼女の言動は楽しいとは思うよ? だけど、彼女が登場した途端に「いつものクリスティー」な空気が発生してしまう。夫人は本書中で数少ない上流人士の屋敷に滞在し、そこで浮世離れしたユルい会話を繰り返す。
 なるほど、これでいつものクリスティーを期待する読者は慰撫されたかもしれないけれど、これは悪しきファン・サービスでしかないだろう。だって、このパートはあからさまに浮いているのだ。しかも彼女が登場するのは中盤のわずかなパートだけだし、ここだけ視点人物が彼女になってしまってるし序盤からの流れも停滞している。
 解決に彼女が寄与するとはいえ、他の人物でも代替可能だ。必然性がまるでない。『五匹の子豚』などで一点の無駄もない作品を書いてみせたクリスティーなのに、本書では「いかにもクリスティーなパート」が夾雑物になってしまっているのは皮肉である。


 さてミステリとしてはどうか。本書は、正攻法で意外な犯人を仕掛けた作品(ちなみに本書は『五匹の子豚』に次ぐ「過去の殺人」テーマ)。解決への大きな手がかりは無論、ポアロの行動のひとつとしてリアルタイムで読者に伝えられており、結城昌治の「一視点一人称」の基準も満たしている。
 だが、ミステリを読む快楽、という意味だと、本題の犯人探しが完了したあとの各章で、「小さな謎」の解決をつぎつぎに撃ちこむあたりの流れが素晴らしい。ミステリとしての驚きと、さまざまな登場人物の「生」にケリをつけるという物語上の要請が、同時にきれいに達成されている。上質の「大団円」感があるのだ。
 『ホロー荘の殺人』の最後の勇み足や、『満潮に乗って』の結末の安さは、「ドラマに決着をつける」という意図がヤリスギにつながったものだと思うが、本書では、作品全体の抑制されたリアリスティックな筆致と呼応したか、非常にほどのよい後口を残す。じつは本書にもロマンスの要素はあるのだが、それは『満潮に乗って』の著者と同一人物とは思えぬ抑制されたかたちで提示され、「語らないことによる余韻」を響かせる。
 じつに品のいい作品なのである。


 わたしがとくに愛するのは最後から二番目の章での対決シーンである。
 まるで「ファム・ファタル」もののハードボイルド・ミステリのクライマックスのようなクールネスがある。ポアロがサム・スペードやフィリップ・マーロウのように見えてきそうなくらい。ここに至って本書は、『杉の柩』以来の「凛としたヒロイン」ものの変奏だったとわかるわけだが、その貫徹がハードボイルド/ノワールの硬質なロマンティシズムとして結実したことに驚かされる。
 この章の凛冽たるカッコよさ――ここを読むためだけでも『マギンティ夫人は死んだ』を読む価値がある。
 とくに普段ハードボイルドを読んでいるような方は必読です。傑作。


「……って、こういう話だから、おれにこの本をすすめたの?」と、わたしは杉江松恋に訊いた。20年ごしの問いだった。
「え?  すすめたっけ。憶えてないなあ」杉江松恋は酩酊した眼で言った。そして吠えた、「こまけえことはいいんだよ!」
 わたしは黙って眼を逸らし、レモンサワーのグラスを乾した。

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