【大型新連載開始!】第0回 はじめに(執筆者・瀬名秀明)

 


 新たな作家攻略シリーズの開幕です。
 作家はジョルジュ・シムノン(1903〜1989)。フランス・ミステリの代表的な作家のひとりです。当サイト編集人・杉江松恋『読み出したら止まらない! 海外ミステリーマストリード100』でこう書きました。

 シムノンは彼自身がひとつのジャンルであるというべき作家である。二百を超える著作を世に送り出したという執筆の量もさることながら、その内容が多岐にわたり、いずれの分野でも一等級の作品をものしている。作品の平均水準が高く、入門書を選ぶのに苦労するほど代表作があるというのは畏怖に値することである。
(中略)
 長短篇を合計すれば八十冊もの作品があるジュール・メグレ警視のシリーズが作者の看板作品だろう。(p.30)

 シムノンの看板作品と評されたメグレ警視シリーズ攻略」に挑むのは、パラサイト・イヴ日本ホラー小説大賞を、『BRAIN VALLEY』日本SF大賞をそれぞれ受賞した作家の瀬名秀明さんです。今回は「第0回」としてイントロ篇。次回から本格的な作品攻略がはじまります。次回第1回は『怪盗レトン』篇、掲載は来年1月を予定、以後毎月一回更新を予定しています。
 末長くご愛読のほどをお願いいたします。

(翻訳ミステリー大賞シンジケート事務局)



 きっかけは、たぶんミッフィーだったと思うのだ。
 ベルギー生まれでフランスの作家、ジョルジュ・シムノンに興味を持つようになったきっかけである。シムノンの名前は子供のころから知っていた。彼が書いたメグレ警視というミステリー小説のキャラクターも、子供のころに読んだ名探偵図鑑の類いには必ず載っていた。しかしパイプをくわえた大男のイラストには、当時ほとんど惹かれなかった。ミステリーを読み始めたばかりの子供には、大人のごちゃごちゃとした人間関係よりも、物理的な密室トリックや、超人的な能力を持った魔人が悪の手先となって襲ってくるような、わかりやすくて派手な物語のほうが楽しかったのだ。
 一方で私はドラえもんに代表されるように、丸いものが好きである。いまも愛用している自宅の急須は、絶妙なカーブを描く耐熱性ガラスのもので、その膨らみぐあいはほっぺたのように愛らしい。それであるとき、ミッフィー(かつてはうさこちゃんとも呼ばれた)の作者を紹介したディック・ブルーナのすべて』講談社)を購入して驚いた。ブルーナは最初ブックデザイナーとしてキャリアを積み、多くのミステリーの装丁を手がけていたのだ。そのなかにシムノンの作品がたくさん含まれていたのである。
 メグレ警視ものは切り絵のパイプを基調として、立ち上る煙のデザインを大胆に組み合わせてみせる。枝に留まる小鳥や、夜の船着き場が描かれているものもあるが、どれも単純化された構成と配色が見事で、ずっと見ていても飽きさせない。ミッフィーのたのしいびじゅつかん』講談社)では、ミッフィーが美術館に行って、モンドリアンのような発色豊かな抽象画を前に、ふむと首を傾げるとてもかわいらしいページがあるが、なるほどいかにもという感じである。ともあれ私はいっぺんでブルーナの装丁に魅了され、以来シムノンの作品が気になるようになってしまった。
 いま日本でジョルジュ・シムノンの小説はほとんど読まれていないといっていいだろう。とくにメグレ警視ものはほぼ品切れ状態で、新刊書店の店頭で買い求めることはまず不可能だ。私自身、それまでシムノンの小説を読んだことなどほとんどなかったが、ためしに単発の仕立て屋の恋(ハヤカワ文庫)や『ちびの聖者』河出書房新社)を読んでみると、これが実に素晴らしい。こちらの心にゆっくりと沁み渡ってくる感じなのだ。後年のシムノンは毎日一章ずつ書き進め、その生活リズムを崩さなかったそうだが、読んでいるとこちらもつい乱れがちな呼吸が、本来のものに戻ってゆくような感じがする。どんなに忙しいときでも、シムノンを読むと小説の呼吸に還ってゆく気がするのである。
 ぽつぽつと古書店サイトで注文しているうちに、シムノンの小説が手元に集まってきた。古書価の高い『死んだギャレ氏』創元推理文庫)をついに入手したとき、「ああ、これでシムノンの邦訳は全部読めるかもしれないな」と初めて思った。とはいえ、ひとつだけどうしても手に入らないものがあった。メグレ警視シリーズの第17作、『自由酒場』という作品だ。1936年5月に『倫敦から来た男(他一篇)』(サイレン社)、また同年11月に『自由酒場(他一篇)』(アドア社)の2種類の版【註1】で邦訳されたきり、戦後は一度も再刊されていない。ふと気づくと、この『自由酒場』以外のシムノン邦訳書籍はほとんどすべて手元に揃っていた。
 
 私は翻訳ミステリー大賞シンジケートのウェブページで、霜月蒼さんの連載アガサ・クリスティー攻略作戦」を愛読していた。私自身は決してクリスティーのよい読者とはいえず、10冊ほどを読んだに過ぎない。しかし私の母はクリスティーが大好きで、子供のころから家のなかにはクリスティーのハヤカワ・ミステリが溢れていた。『カーテン』『スリーピング・マーダー』(ともにクリスティー文庫)はリアルタイムの邦訳で読んだし、かつての豪華キャストの映画も愉しんで観ていた。だから霜月さんがどんどんクリスティーに嵌まってゆく様子を見るのはとても興味深かったのだ。もちろん私は書籍にまとめられたアガサ・クリスティー完全攻略』講談社)も購入した。
 自分もこんな作家攻略を書いてみたい、と思ったのだ。
 執筆の資料としてではなく、ただ純粋に自分の娯楽として読み、感想を書いてみたいのだ。
 
 他にもこつこつと集めて書籍が溜まっている作家は何人もいる。だがジョルジュ・シムノンで連載をやりたいと思ったのは、よい意味でシムノンが「おたく」的ではなく、またブームともいまや無関係な作家だからだ。シムノン1903年に生まれ、1989年に亡くなった。シムノンの小説は数多く映画化されているが、だからといってシムノンが大好きだという小説愛好家にあまり出会ったことはない。たぶんシムノンの読者は慎ましく自分ひとりで物語を愉しむようなタイプなのだろう。そんな作家を、毎日呼吸するように読んでみたい。
 河出書房新社がかつて50冊のメグレ警視シリーズを邦訳刊行したとき、帯に都筑道夫氏のこんな推薦文が掲載されていた。
 

 シムノンがわかるかどうかを、その人の小説読みとしての程度をはかる尺度にしていたことが、私にはある……。シムノンには、私のようにフランスの推理小説に好意を持っていない人間をも、酔わさずにおかない小説そのものの強さ、国籍を越えた普遍性があって、尺度になる。推理小説にも、小説としてのうまさを求めるひとは、シムノンのメグレ・シリーズを読むがいい。

 
 すてきな推薦文だと思う。だが私はこの都筑氏の言葉を知った上で、あくまでも自然な心持ちで、これからもシムノンに向き合っていきたいと思うのだ。
 そもそもメグレ警視シリーズは、身構えて読むようなものではないはずだ。作者のシムノン自身、さほど力を入れて書いていたとは思えない。それにメグレ警視シリーズは、きちんと完結さえしていないのである。
 シムノンメグレ警視シリーズは、一般に三期に分かれるとされている。1929年執筆の第1作『怪盗レトン』(角川文庫ほか)から1933年の第19作『メグレ再出馬』河出書房新社)まで、怒濤のように長編が書かれた第一期。しばらく間を置いて、短編が集中的に書かれた第二期。そして再び長編に戻り、タイトルにも「メグレ」とつけて、コンスタントに新作が発表されていった第三期だ。いちばん最後の作品は1972年に発表された『メグレ最後の事件』河出書房新社)だが、そもそもこの原題は『メグレとシャルル氏』というそっけないもので、たんなるシリーズの一編に過ぎないらしい。アガサ・クリスティーがエルキュール・ポワロの最終作として『カーテン』を用意していたような仕掛けなど、まったく存在しないようなのだ。
 なぜシムノンがこの作品でメグレ警視シリーズをやめてしまったかというと、批評家に酷評されたからであるらしい。『メグレと若い女の死』(北村良三訳、ハヤカワ・ポケット・ミステリ)の訳者あとがきにこう書かれている。
 

 フランスの週刊誌〈エクスプレス〉の最新号にこの作品[註:『メグレとシャルル氏』のこと]の書評がでている。「いったいシムノンに何が起こったのか? 30年の間ずっともっとも偉大な作家であり、新人作家たちはかれを真似しようときゅうきゅうとしている。それなのに、かれは今日われわれに偉大なシムノンのかなしい模倣作品を提出する。かれのファンはこの零落を認めたがらない。『家の中の見知らぬ男』『メグレの休暇』はすばらしいミステリである。注意深く、これらの作品を読み返すと、台所の匂いや春の日の空気のなまあたたかさ以外に、ある雰囲気が創りだされているのに気づく……。
 シムノン氏よ、あなたが最初のメグレ物『メグレ』を出版して以来世界も言語も動いている。あなたはその世界や言語の動きにぴったりとついていかなければならない」
 非常に手厳しい書評であるが、この書評からわれわれが感じうることは、シムノンが老いたなという感慨である。そしてそのシムノンの老いはそのままメグレの老いにも通じているように私には思われる。

 
 ここで言及されている『メグレ』とは、第19作の『メグレ再出馬』のことだろうか。初めてタイトルに「メグレ」という名がつけられた作品だ。しかしそうした細かいことはあまり関係がない。
 この後、シムノンは小説を書くのをやめてしまった。そして膨大な数の自伝を口述筆記のかたちでまとめることに専念していった。シムノンは波瀾万丈の人生を送った男だ。本当かどうか知らないがすさまじい数の女性と寝たと豪語しているし、秘書と不倫し、その女性との娘であるマリー・ジョーは25歳で自殺を遂げた。こうしたシムノンの人生の一部は、翻訳家の長島良三氏が書籍や雑誌連載で熱心に日本への紹介に努めていたが、その長島氏も2013年に亡くなられた(先の「北村良三」氏は長島氏のペンネーム)。
 シムノンは生涯で膨大な数の小説を書いた。邦訳されていないものもたくさんある。私はフランス語がわからないから(一時期『大空のドロテ』という長編小説を書くためアリアンス・フランセーズ仙台に通っていたのだが、途中で挫折してしまった)、もとよりその全著作を読むことはできない。そしてメグレ警視シリーズも尻切れトンボで終わった作品である。だからどこから読み始めてもよいし、どこで終わってもよいのである。そのくらい自由に、ただ生活の楽しみとして読んでみたい。私は長島良三氏とは一度もお目にかかったことはなかった。翻訳関係者の誰かと友だちだからという理由で無理に作品を褒める必要もない。繰り返すが、ただ呼吸するようにシムノンを読んでみたいのだ。
 
 シムノンの書誌は混乱していて、たとえばメグレ警視シリーズも第1作は『怪盗レトン』だということで意見は一致しているようだが、では2作目はといわれると書誌によって記述が異なる。シムノンは最初の数作を1929年から1930年に立て続けに書き、それらは書いた順番とは別に1931年から刊行されたようなので、とくに初期作は厳密に順序立てて読むのが難しい。そのあたりはあまり深く追究することなく読んでいこうと思う。ちょうどペンギン・クラシックスが2013年11月からメグレ警視シリーズの英訳新版を刊行し始めたので、その順番を踏襲しよう。そしてこちらのウェブページ( http://www.toutsimenon.com )の書誌を参考にしつつ読み進めたいと思っている。
 また、いまの日本では、シムノンの作品はメグレ警視シリーズより単発作品のほうが入手しやすい状況にある。もし今後進めてゆくにつれてご支援をいただけたなら、それらの単発作品もときおり取り上げてみたい。
 それではメグレ警視シリーズを読み始めよう。第1作はシムノンが打ち棄てられた平底船で書いた『怪盗レトン』である。この年、シムノンは26歳だった。私がパラサイト・イヴを書いたのと同じ歳だ。
 
【註1】
 国立国会図書館http://www.ndl.go.jp/index.html )には「国立国会図書館デジタルコレクション」というものがあり、「NDL-OPAC国立国会図書館 蔵書検索・申込システム)」に利用者登録すると地方在住者でも近くの図書館( http://dl.ndl.go.jp/ja/soshin_librarylist.html )でデジタル化された書籍データがPCモニタ上で閲覧でき、また複写を申し込むことができる(検索だけなら自宅のパソコンでも可能)。
 シムノンの古い表記「ジョルジュ・シメノン」で検索すると、ここに記したサイレン社版の書籍情報「倫敦から来た男:他一篇」(1936.5.21発行)と、アドア社版の書籍情報「倫敦から来た男・自由酒場:探偵小説(1936.11.9発行)が見つかるはずだ。つまり古書としては入手困難でも、デジタルデータによって『自由酒場』は誰もが気軽に読めるのである。
 ただし私が実際に両者のデジタルデータを見た限り、サイレン社版の奥付には「倫敦から來た男」としか書かれておらず、一方アドア社版の奥付には「自由酒場」としか書かれていない。そして前者のデジタルデータには「倫敦から來た男」とのみタイトルが書かれたカラーの表紙画像が付されているのに対し、後者の表紙画像は失われている。そして中身の扉部分には、どちらもほとんど同じレイアウトで「倫敦から來た男(改行)自由酒場」と両編のタイトルが載っていた。
 アドア社の書籍の実物は見ていないが、これらのことからおそらくアドア社版の本当のタイトルは『倫敦から来た男・自由酒場』ではなく、あえて書くなら『自由酒場(他一篇)』が正しいものと思われる。よって本文ではそのように表記した。なおアドア社版の方には江戸川乱歩による「序」と伊東鋭太郎による「訳者序」が追加掲載されている。
  嬉しいことに、この『自由酒場』は、論創社から『紺碧海岸のメグレ』のタイトルで2015年初頭に新訳刊行されることが発表された。久々にメグレ警視シリーズの長編が新刊書店の棚に戻ってくることになる。楽しみに待ちたい。
 

瀬名 秀明(せな ひであき)

 1968年静岡県生まれ。作家。1995年にパラサイト・イヴ日本ホラー小説大賞、1998年に『BRAIN VALLEY』日本SF大賞をそれぞれ受賞。著書にデカルトの密室』『インフルエンザ21世紀(監修=鈴木康夫)』『小説版ドラえもん のび太と鉄人兵団(原作=藤子・F・不二雄)』『科学の栞 世界とつながる本棚』『新生』等多数。
  
ディック・ブルーナのすべて

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Pietr the Latvian (Inspector Maigret)

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