翻訳書生気質(執筆者・西崎憲)

 

1 翻訳という仕事

 
 もしかしたら年齢を重ねることにも多少は良いところもあるのかもしれない。
 そう思うのは若い頃より「自分」というものに慣れ、仕様書のようなものを手に入れた気もするからである。
 自意識あるいは自尊心は大変厄介な代物で、手に負えない悍馬といった趣があるが、経験というのはありがたいもので、そうした手強いものにもある程度は慣れさせてくれるのである。まあ、慣れるというより、諦めると言ったほうが実情に近いかもしれないが。
 しかし、反面、自意識の希薄化は人をむやみに饒舌にさせるらしく、自分のことを考えると明らかに若い時分より口数が多くなっている。たぶんみんなこうして頑固で口うるさい爺さん婆さんになっていくのだろう。
 さて、一箇月の連載エッセイという貴重な場を頂いたので、この場で翻訳とその周辺にあるものにたいして、腹蔵のないところを綴らせていただこうと思う。なるべく役に立つことを書きたいと思うが、どうなるかは風向きしだいかもしれない。一回目は出版翻訳という仕事についての雑感である。
 
 翻訳の仕事をはじめて四半世紀が経った。主観としてはそれは短く思えるのだが、まあ、それはよくある感慨というべきだろう。時間の流れは早いものなのだから。
 出版翻訳の業界にはもちろん良いところも悪いところもあって、悪いところの筆頭は最近では翻訳が職業として成り立たなくなっていることだろう。
 文庫の場合、印税は、一冊訳して40〜100万が現在の相場だろうか。私はほかにも仕事をしているので、どうがんばっても年に一冊を訳すのが限界であり、それでは職業が翻訳者であるとは言いにくいところがある。実質的に趣味あるいは副業となっている。
 そして、良い面のほうは、努力を重ねれば、好きな作家・作品を訳して報酬が貰えることだろう。さらにそれがベストセラーになる可能性さえある。
 けれども私はそれと同じくらい翻訳業界の長所は開放的なところだと思う。
 参入するには厳しい世界であるというのが通説になっているので、開放的というのは意外に思うかもしれない。
 しかし、たとえば学歴などをとっても、出版翻訳に関わる人々は額面ではなく、中身を見ようという態度が自然に身についているようなのだ。
 たとえば私は国書刊行会への企画の持ちこみから編纂と翻訳の仕事をはじめたが、そのとき履歴書も経歴書も持参しなかった。ただ企画書を携えていっただけである。
 それに四半世紀やっていて、編集者から学歴を訊かれたことはない。プライヴェートの酒席でも一度もない。
 私の学歴は高校で終わっている。一般社会ではもちろんこの学歴で尊敬されることはない。
 けれど出版翻訳の世界ではまず訳文の質が第一である。訳文の質が高ければ、高卒だろうが大学がどこであろうが家柄がどうであろうが関係はない。
 もちろんこの世界でもコネの力は大きい。血縁や子弟関係が状況を左右することははっきりいって多い。けれど血縁も師弟関係も長い目で見ると、訳出したものの評価に関係することはまずない。
 何と素晴らしい世界ではないだろうか。個人の仕事の出来がこれほど評価に直結する世界を私はほかに知らない。音楽の世界も小説の世界も「評価」というものは複雑怪奇なやりかたで下される。そこに理がないように見える場合もしばしばである。
 しかし、参入が難しいと言われることには理由がないわけではない。確かにほとんどの出版社は表向きは持ちこみを受けつけないと明言しているし、新人でやりたいことができるのは稀な上、出版社や編集者によってはだいぶ理不尽なことも言われるようでもある。
 けれど、どうだろう。たとえばあなたが中学しか出ていないとしても、翻訳を熱心に勉強した結果、水準以上の訳文が書けるようになり、しかも翻訳を扱ったホームページを運営し、そこに版権の問題のない短篇小説の優れた訳を幾つか載せ、解説なども添えられ、当該のジャンルの知識が十分であることが看取でき、未知の作品・作家の紹介に意欲的で、その文章も篤実で、かつ人物も社会的な常識を弁えたように見えるならば、編集者や編纂者のほうが放っておかないだろう。少なくとも私はそういうホームページ、人物を見かけたら、嬉々としてブックマークを付すはずだ。
 要するに、どこまでやるかという話だろう。やる気と能力がある者がやりたい仕事を得るということは、ほかの業界では難しい場合もあるが、翻訳業界ではそういう人間は、正当な形で報われることが多い。出版翻訳の世界に不当なことがないとは言えないが、そういうことはたいてい長くつづかない。正直な世界である。私は翻訳業界のそういうところを祝福したいと思う。
 さらに翻訳を自分の仕事として選ぶ方々は話しやすい人が多い。人の話に耳を傾けるということが翻訳の本質なので、当然といえば当然かもしれないが。
 もちろん頑迷固陋とまではいかないものの、それに近い方もいる。いるが、ほかの分野に比べればたぶん少ないだろう。
 
 いや、しかし良いことのほうを書きすぎたかもしれない。実際に本を出していくようになれば、気持ちが挫かれることは少なくない。
 たとえば、売上げはもちろんであるが、訳書や訳文の評判にはだいぶ神経を磨り減らされる。
 アマゾンのコメント欄の、ふだん小説を読まない評者あるいはそのジャンルが最初から好きではない評者の、言いがかりめいた評を手をこまねいて見ていなくてはならない。また、ある朝、自分の訳書の誤訳を指摘したブログを発見しなければならない(しかも正しい指摘である)。
 そういったもの、文の巧拙、誤訳などはもちろん訳者の責任ではあるが、すべての読者を納得させるほど巧い文というものは存在しないし、誤訳しないという属性は人間にはない。
 けれど、翻訳者にそれを声高に主張する権利はたぶんない。ただ甘受するのみである。というか、甘受しておいたほうが社会的にもおそらく良い結果がでるし、脳にも良い。
 翻訳者に求められるのは、語学と小説解釈に関する不断の努力と、幻でしかない「完璧な訳文」を求めるラマンチャの騎士的行為を継続する気力である。人の能力を超えたそうした仕事を前にして怯まない先輩、同輩や、未知の後輩を、私は大変頼もしく思う。
 


西崎憲(にしざき けん)。青森県生まれ、東京在住。訳書にチェスタトン『四人の申し分なき重罪人』、バークリー『第二の銃声』、『エドガー・アラン・ポー短篇集』『ヘミングウェイ短篇集』など。2002年にファンタジーノヴェル大賞受賞。小説に『蕃東国年代記』、『ゆみに町ガイドブック』など。近刊に『飛行士と東京の雨の森』(仮題)。音楽レーベル dog and me records 主宰。
 
四人の申し分なき重罪人 (ちくま文庫)

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蕃東国年代記

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