第30回:呼延雲のトークショーで感じた中国ミステリに求められること(執筆者・阿井幸作)
世界は2017年を迎えましたが、旧暦を重視する中国では最近ようやく正月らしくなってきて、各所に設置されたままのクリスマスの飾りもようやく仕舞われ始めました。今年の春節は1月27日から2月2日までです。この期間中、日本は中国人観光客で賑わうことでしょう。まぁ私は旧暦の正月も北京で過ごす予定ですが……。
先日1月8日に北京市長富宮(ホテルニューオータニ)近くで作家による作家のためのトークショーが開かれました。
このイベントは小説や脚本、漫画などの版権を扱う雲莱塢という会社が主催し、本来はこの会社に登録している作家や脚本家のみを対象にしたものなのですが、私はあの手この手を使って何とか潜り込むことができました。
なぜそこまで行きたかったかと言うと、この日トークするのが本コラムの第20回で取り上げたミステリ小説家・呼延雲だったからです。
■トークテーマ:怎様把最難的類型小説写到最好■
(訳:最も難しいジャンル小説をどうやって最高のものにしようか)
- 参考サイト:トークショーの一部が掲載されています(中国語)
当日、彼は中国大陸の本格ミステリ小説家、しかも専業作家(中国のミステリ小説家の大半は兼業)として、50名程度の業界関係者の前で2時間喋り続けました。ファンに向けたトークショーとは異なり、言わば講師として同業者へアドバイスをしているようなものなので創作活動で役に立つであろう実体験やテクニックを披露。事前に参加者から募った質問に答えるという進行だったので話はどれも具体的でした。
ただ、最後の質疑応答の時にせっかくの機会なのに「1日何文字書けばいいのか?」というどうしようもない質問が出たことに私は呆れましたが、もしかして中国ではそれすらも調べられないのだとすれば、こういう場がビジネスチャンスに繋がるのではと思いました。今回のイベントは無料公開でしたが、せっかく版権会社が主催しているのだから素人や新人作家を対象にした有料の講座を開き、彼らをまとめて会社で囲むとかはどうでしょうか。
トークショーでは「中国の作家は普段から知識を蓄えておくべきだ。京極夏彦みたいに。付け焼き刃の知識で書いたところで読者にはバレる」とか、「本格ミステリなら売れる確率が高くなる。真似るなら日本より欧米のミステリだ、日本ミステリのように文芸的、感動的な作品は中国国内では受けない」など技術的なアドバイス、そして中国でミステリが売れない原因などを詳しく語っていました。本来ならこれが今回の主題なのですが、私の興味は完全に別の点にありました。
今回のトークで私が注目したのは、ミステリ・サスペンスを題材にした小説やドラマの検閲が最近厳しくなっている(少なくとも私はそう思っている)ことに呼延雲が触れるかどうかでした。そしたら「(中国の作品で)警察が犯人ってことは絶対ありえませんよね?」と平然と表現規制に言及し、一般人を罵倒しない警官なんかいるはずないのに書けない、犯罪の手段も詳細に書けない等の愚痴を披露。参加者はみな笑っていました。
このあたりの感覚は私も強く持っていて、中国ミステリにでてくる警官は真面目過ぎて現実とのギャップが大きすぎるのではと不満でした。だから前回の第29回では、清廉潔白のイメージとかけ離れた不良警官が出る作品を書ける台湾ミステリに対する羨ましい気持ちを述べました。
では、呼延雲の作品で警察はどのように扱われているのでしょうか。
2009年に出版された呼延雲のデビュー作にして2016年に再出版された『嬗変』(訳:変遷)及び『黄帝的詛語』(訳:黄帝の呪文 2014年)を読んで確かめてみましょう。
ちなみに以前紹介した『烏盆記』を含め、呼延雲が今まで出した5作品は全て作者と同名の探偵・呼延雲が活躍するシリーズものです。
『嬗変』
売春婦を凄惨な方法で虐待し、現場にマッチ箱を置くと言う犯罪者の登場に警察は威信をかけて捜査をするも、その後も何の進展もないまま次々と女性を狙った殺人事件が発生する。
そのため、警察と市の上層部は事態を打開するために外部から協力を仰ぐことを決めた。そこで大学教授の林香茗が捜査班のリーダーに任命され、その他に新聞記者の郭小芬、探偵の呼延雲が加わり、一連の事件に真犯人と模倣犯がいることを突き止めるのだが捜査線上に浮かんだのは警察も躊躇するほどの大物だった。
『黄帝的詛語』
中国史の裏に潜む『断死師』という存在。彼らは豊富な医学知識と鍛えられた眼力によって人の死を予見することができ、伝説的な名医の華佗や名探偵・霍桑(中国の作家程小青が創作した人物。シャーロックホームズを意識した造形で中国のホームズと呼ばれる)も『断死師』であると伝えられている。
ある大企業の社長が断死師に死を予言されて不可解な死に方をするが、それは現場に居合わせた法医学者の蕾蓉をはめるための罠だった。不法な臓器工場を経営する上で障害となる蕾蓉から職務を奪うため警察の一部が彼女を冤罪に陥れる。警察と探偵組織が彼女を追う中、はたして呼延雲らは蕾蓉の潔白を証明できるのか。
『烏盆記』
北京の公安処長・林鳳衝の大捕り物に協力した元刑事で記者の馬海偉が現場となった無人の花屋にいるとラジオから京劇の『烏盆記』が突如流れてくる。心霊現象かと恐怖していると、そこで京劇の内容にそっくりの真っ黒い器(烏盆)を見つける。まさかと思い烏盆を割ってみるとなんと成人の臼歯が出てきた。これはきっと自分が警察官時代に捜査を妨害されて解決できなかった違法の窯場の崩落事件による犠牲者の物だと理解した馬海偉は単身現地入りし、今度こそその窯場の所有者である趙大こと趙金龍を捕まえようと決意する。しかし現地で、烏盆の中には過去に趙大に大金を奪われて殺された自分の父親が入っていると訴え、趙大への復讐を誓っている翟朗という青年と出会う。そして事件の関係者が揃う中、疑惑の大元である趙大は密室で死体となって見つかる。事態は新たな展開を迎え、捜査に参加することになった林鳳衝は名探偵・呼延雲に協力を仰ぐ。
呼延雲シリーズにはこの他に『鏡殤』(2010年)と『不可能幸存』(2011年)がありますが、読んでいないのでここでは触れません。
3冊に共通しているのは、異常な事件が発生し警察の手に負えないので探偵に協力を仰ぎ、最終的に探偵が事件を解決するという流れです。この作品に限らず、探偵が出てくるミステリは大体こういう流れですので今更言う必要もないですが、呼延雲シリーズでは名探偵・呼延雲以外に民間のミステリ団体が多数登場し、警察の存在が益々脇に追いやられます。
例えば『黄帝的詛語』では愛新覚羅・凝という天才女子大学生率いる『名茗館』という探偵組織が警察の捜査に協力し無実の蕾蓉を追い詰める(要するに推理ミス)わけですが、捜査の主導権は単なる民間団体でしかない『名茗館』にあり、欧米の先進的な捜査技術を持つ彼らは中国警察を見下しています。
作中では愛新覚羅・凝を含む『名茗館』はいかにも憎たらしく描かれていて、偉そうにしている彼らが呼延雲らに論破されるシーンが痛快なのですが、前述した作者の言葉を思い返すと、探偵組織が出てくるというフィクション性の高い作品とは言え、果たして民間人が警察を小馬鹿にするような描写を書いて良いのかと、一読者として考えてしまいます。
『黄帝的詛語』はもともと、『断死師』というタイトルだったのですが審査の段階でタイトルに『死』が入っているのが引っかかり、現在のタイトルになったそうです。また、違法の臓器移植というデリケートな問題を描いているためか、作者は注意を受けたそうです。結局本は出版されているので軽い処分だったのでしょうが、処分の度合い次第では出版停止措置にまで至ったのでしょうか。
中国のミステリ小説家に求められること
トークショーで「若い頃は怖いものがなかった」と語った呼延雲ですが、現在は専業作家として食っています。もし今後、中国ミステリに探偵を登場させるのが難しくなった場合、彼はシリーズとともに心中するのでしょうか。
さらに彼はこうも言いました。「作家は政治をわかっていなければいけない」と。
これは世の作家は社会派ミステリを書けという意味ではなく、新聞を読んで政治的に敏感な話題を理解し、問題のある描写を「書かない」ための情報収集を怠るなと言っているのでしょう。
実際、作家側がいくら努力をしようが政府の胸三寸で規制される可能性は大いにあります。「作家は政治をわかっていなければいけない」という言葉は政府におもねっているように聞こえますが、くだらない規制でせっかくの作品を消されてたまるかという意地を感じます。面白い作品を書いても世に出なければ話になりません。そのためには「上に政策あれば下に対策あり」という中国のことわざのように、現状を熟知していることが大事です。中国のミステリ小説家はいい作品を書くためにあらゆる面で勉強しなければならず、また流行を知る他、空気を読む能力も求められます。このようなストレスの多い環境下で生まれる作品はきっと創意工夫を感じられるものになるでしょう。と言うよりも、読者の一人としては、状況が変えられないのであればせめて規制の中から何が生まれるのか楽しまなくてはやってられないのです。
阿井 幸作(あい こうさく) |
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中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。 ・ブログ http://yominuku.blog.shinobi.jp/ ・Twitterアカウント http://twitter.com/ajing25 ・マイクロブログアカウント http://weibo.com/u/1937491737 |
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第29回:『華文推理系列』第三集で気付かされた中国ミステリーの魅力(執筆者・阿井幸作)
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本作については翻訳者である稲村氏自身が先日、[訳者自身による新刊紹介]のコーナーの『現代華文推理系列 第三集』(執筆者・稲村文吾)にて各作品のあらすじと紹介文を簡潔にまとめています。
なぜ日も浅いうちに被せるように記事を書いたのかと言いますと、私がこの三つの作品を読んで気付きと感動があったからに他なりません。
台湾のミステリー作品にも目を通している稲村氏に対し、北京市在住の私はもっぱら中国大陸の長編ミステリーばかり読んでいます。例えば『第4回KAVALAN・島田荘司推理小説賞』の入賞作品である『H.A.』(2015年・台湾版)と『熱層之密室』(2015年・台湾版)が翌年2016年に大陸版(簡体字)が出たので読みましたが、台湾版(繁体字)を敢えて読もうという考えはありません。とは言え大陸でも淘宝網(中国のネットショッピングサイト)などで台湾の書籍を購入できるので、簡体字訳が出るまで待ちきれないという熱心な中国人読者はそれを利用して買います。
閑話休題。そういうわけでこの『現代華文推理系列』は台湾及び大陸の短編ミステリーを知る上で重宝していたのですが今作で一応の完結を迎えてしまい悲しいです。
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台湾の若者たちの楽しい大学生活が知人の死により一転して陰鬱なものになる…かと思えばみんな探偵気取りで被害者が飛び降りる前にすでに死んでいた(つまり死体が自殺した)という難解な事件に意気揚々と取り掛かる様子は、人の死を機械的に処理する一般的なミステリー小説の枠を飛び越えた娯楽要素のある作品へと仕上げています。また、こんなに陽気なミステリーが1995年に書かれたということにも驚きました。
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本作の問題人物・莊孝維組長(警部)は作品内の言葉を借りれば「超弩級のクズ」であり、被疑者の感情を平気で逆撫でする、怪しい人間はとにかく逮捕しようとする、部下の手柄を独り占めするなど一時期の『こち亀』の両さんみたいな傍若無人さだな程度にしか思わなかったのですが、ジョイス・ポーターの描くドーヴァー警部を意識した人物なのだそうです。
こういう不良警官は現在の中国大陸のミステリーではまずお目にかかれないと思います。
現在、大陸のミステリーはますますその規制を強めている感じが否めません。ある作家が大陸で禁止されている私立探偵を主人公にした作品を書いていけば発禁処分を受けるかもしれないと口にしたり、比較的審査の緩いネットドラマで数本のサスペンスドラマが残酷な表現、警察のイメージを損なうなどの理由で削除されたりして、2016年は今後の大陸のミステリーの発展に暗い影を落とした年でもありました。
第9回で紹介した『季警官的無厘頭推理事件簿』は優秀だがドジでおっちょこちょいな警官の活躍を描いたユーモアミステリですが、『血染めの傀儡』のような作家の悪意すら垣間見える造型の警察官は描かれてはいません。また、第21回で紹介した『烏鴉社』は窃盗から殺人までなんでも起きる大学にある探偵サークルに所属する大学生の話ですが、作品に漂うシリアスさにより『自殺する死体』とは根本的に性質が異なります。
これらのような台湾の作品を読むとやはり大陸には作家の想像力では超えられない壁があって、制約のもとに苦労を強いられており、苦境の中から生まれる創意などたかが知れているのではと思ってしまいます。
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武侠ミステリー小説というニッチなジャンルには他に『冥海花』(2011年)や第17回で紹介した『這么推理不科学』(こんなミステリは非科学的だ)』(2015年)が思い当たります。ただし前者には『飄血祝融』のような派手さ(超人的な描写)はなかったと思いますし、後者は現代を舞台にして武侠小説の豊富な知識を持つ探偵が独特な視点で事件を解決するというものです。
本作のように現実では到底不可能な技を登場させてもフェアなミステリー小説として成立している作品は上述した『H.A.』が上げられます。この作品は剣と魔法のファンタジーゲームの中で探偵と犯人に分かれたプレイヤー同士が推理ゲームをするという虚構の世界を舞台にしているという意味では似ています。『飄血祝融』も凶器などなくても指一本で人を殺せそうな人物たちが当然のように出てくる設定に驚かされますが、最後まで読み進めると確かにこの世界では理に適っていると膝を叩く推理に出会えます。
日本語に翻訳された作品を読むことで私自身気に留めていなかった中国ミステリーの面白さに気付かされ、更に台湾と大陸の違いを感じさせられました。
阿井 幸作(あい こうさく) |
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中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。 ・ブログ http://yominuku.blog.shinobi.jp/ ・Twitterアカウント http://twitter.com/ajing25 ・マイクロブログアカウント http://weibo.com/u/1937491737 |
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第28回:十周年を迎えられた雑誌と迎えられなかった雑誌(執筆者・阿井幸作)
11月に中国ミステリ読者にとって悲しいニュースが飛び込んできました。2007年から創刊されおよそ10年の歴史を持つミステリ専門誌の『最推理』が原稿料を支払えずに休刊するというのです。
武漢銀都文化伝媒股份有限公司(以下、銀都)の董事長・関杭軍は微博(マイクロブログ)にて『最推理』の他に同社が発行する『看小説』や『淘漫画』(どちらの雑誌の内容もミステリとは無関係)など多くの雑誌を休刊することを発表し、その理由を語りました。以下に文章の一部を抜粋し翻訳します。
●『推理之門』2016年11月6日【速報】『最推理』休刊より引用
『看小説』の毎号の原稿料は4万元(1元=15.7円と仮定して、約63万円)に上る。これは中国の他の出版物を見ても低くはない数字である。今年は資金繰りに困難しており、最大限の努力をして毎号3万元に抑えた。ここ数年、『看小説』の原稿料だけですでに2百万元に及ぶ支出があり、現在も十数万元の原稿料を支払えていない。更に印刷、編輯、出版、物流、市場営業などの費用で巨額の支出となる。……(中略)
編集者たちもあちこちの書報亭(キオスク)を駆けずり回って雑誌の発行量を伸ばそうとした。しかし、都市や町に一体いくつの書報亭があると言うんだ?……(中略)
ここ数号の原稿料の未払いに対する作家たちの怒りは理解している。……(中略)『看小説』及び『最推理』の作家やイラストレーターには心よりお詫び申し上げる。そして皆様が法律に従って原稿料を受け取れることを祈っている。
http://www.tuili.com/2010/Article_show.asp?act=search&aid=&bid=125&fid=202098
ここで述べられている謝罪は主に『看小説』の掲載作家に向けられたものであり、休刊の理由も『看小説』の原稿料すら捻出できなかったからとだけ書かれていますが、『最推理』も同じような理由でしょう。この銀都は2016年6月から10月までのビル管理費や水・電気代の合計3万元すら滞納しており、資金面でかなり困っていたようです。
しかし、休刊も仕方ないと考える読者も多いのではないでしょうか。『最推理』や『歳月推理』などの雑誌は基本的に本屋には売られておらず、書報亭と呼ばれる街中にあるキオスクに並べられています。だが全ての書報亭にあるわけではなく、例えば私は北京在住ですが私が住んでいる地区の書報亭にはこれらの雑誌が置かれておらず、買うとすれば学生街まで足を延ばす必要があります。また、ここ最近になって書報亭が撤去されており上記の雑誌の販路は減少しています。
中国の東野圭吾と呼ばれる周浩暉や島田荘司推理小説賞4回連続入選の王稼駿、100篇以上の小説を書き上げた軒弦などを擁した雑誌の最期が資金不足というのは悲しいことですが、これが出版社全体に訪れる悲劇ではなく、時代の変化に追いつけなかった雑誌の淘汰だと思いたいです。
とは言え、これで中国のめぼしいミステリ雑誌は『歳月推理』及び『推理世界』二誌だけになり、つまりは『推理』一強時代になってしまったのではないでしょうか。『最推理』とは対照的に『歳月推理』は今年で創刊十周年を迎え、『推理十周年紀念特輯』を発行しました。
この本、せっかくの記念誌だと言うのに代表者のコメントも関係者の祝辞も全く掲載されていない素っ気ないもので私は構成に対して不満を持っていますが、十名の掲載作家による十篇の書き下ろし作品が収録されています。各作品のタイトルには『一万次悲傷』(一万回の悲しみ)や『第七種動機』(七番目の動機)など一から十までの数字が入る工夫がなされており、午曄や言胠らの看板作家が『歳月推理』十年の功績を労っています。更に、今後は『推理十年精選』と題した傑作集が四冊発行される予定で、現在の読者も過去の名作を読むことができるようになります。
『歳月推理』は私が中国ミステリにハマったきっかけであるのでこうして十周年を迎えて記念誌を発行することになったのは非常に嬉しいです。これもこの雑誌社が読者と作家を大事にしていたおかげでしょう。『歳月推理』は今回で三回目となる『華文推理グランプリ』を実施しました。今回は三十九篇もの作品が集まりましたが、投稿した作品には『カヴァラン・島田荘司推理小説賞』の入賞作品『神的載體』(神の乗り物・2016年)の作家・遊善鈞や第三回島田荘司推理小説賞の受賞作品『我是漫画大王』(ぼくは漫画大王・2016年)の作家・胡傑の作品もあり、旬な作家を多く紹介しようとする姿勢が見受けられます。
私は、2016年が中国ミステリにとって出版社の努力が結ばれた年だと理解していただけに今回の『最推理』の休刊は寝耳に水でありました。また、これは今年の出来事ではありませんが『歳月推理』の編集長・張宏利がとある出版社による無断転載を公表しました。彼が言うには、『歳月推理』に権利のある作品を某出版社が国家の定める基準を遥かに下回る非常に安い金額で買い取ろうとしたのですが張編集長は作家の権利を守るためにこれを拒否。するとその出版社は無許可で作品を転載した挙句、作家には使用料をすでに『歳月推理』に支払ったと言ったとのことです。この某出版社及び掲載誌が何であるかは言及しませんが、このことが本当であれば「まさかあの出版社が……」と驚くばかりです。
不幸なニュースや不実な出版社が存在するからこそ、『歳月推理』などのまともな出版社は良心的な姿勢を崩すことなく、読者を失望させず、作家にチャンスを与え続けて欲しいものです。
阿井 幸作(あい こうさく) |
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第27回:新星出版社の新作中国ミステリ紹介(執筆者・阿井幸作)
私が8月に中国の上海で開催された『上海ブックフェア』に行った主な理由は伊坂幸太郎のサイン会に来た中国人読者の反応を見るためでした。当日、サイン会会場には合計1,000人近い人々が訪れましたが統率の取れたスタッフの指揮により混乱が生じることなく無事終わりましたが、伊坂先生が会場の別室でサインをする形式になっていたため話を聞く機会はありませんでした。また別日に別会場で行われたトークショーは人数制限のある予約制だったのでそもそも参加することもできませんでした。
この伊坂幸太郎サイン会及びトークショーを主催したのが大量の海外ミステリを翻訳・出版している新星出版社(当然、伊坂幸太郎の書籍も多く出している)でしたが、ここが中国人ミステリ小説家によるトークショーを開いてくれたおかげでブックフェア期間中は暇になることがなかったです。
そのトークショーは新星出版社から最近新刊が出た(出る)陸秋槎、陸菀華、時晨、王稼駿の若手小説家4人によって行われ、その後はサイン会も開かれました。新刊即売会の意味合いが大きいかと思いますが、『我々にはまだ名探偵が必要か?』などをテーマにし「探偵がいるとシリーズ物が作りやすい」とか「そもそも中国は私立探偵が禁止されているから(探偵を扱っている本が)いつ発禁処分を受けるか怖い」などの話が聞けて面白かったです。
この時の模様は新星出版社が全文を文字に起こしているので、興味のある方は下のURLを御覧ください。
【ミステリ作家が問う 我々にはまだ名探偵が必要か?】(中国語)
https://mp.weixin.qq.com/s?__biz=MjM5NzY2NDI4MQ==&mid=2841225576&idx=1&sn=d5ea730941480dcfce9c69be46ef1747
今回は新星出版社が推薦する(?)この4名の新刊を紹介したいと思います。
■『元年春之祭―巫女主義殺人事件』(2016年)陸秋槎
現在は石川県在住の小説家・陸秋槎の初の単行本です。もともとは少女たちの日常ミステリを描いた短編を書いていた作家でしたが、本作では時代がぐっと遡って中国の前漢が舞台になっています。
楚国の祭祀を取り仕切っていた一族の少女・観露申が同年代の豪族の娘であり巫女の於陵葵と出会い、彼女に昔起きた一家惨殺事件の犯人を推理してもらい、彼女との出会いが新たな殺人事件を招くことになるという話なのですが、この二人の少女が全然仲良くならず、あまつさえ最後はお互いを犯人だと疑うほど関係性が悪化してハラハラさせられます。作中で明らかになっている事件の証拠が視点を変えるだけで真犯人を指す最大のヒントになっているというシンプルな構成と、閉ざされた関係の中であるが故に生じた常人には到底理解できない動機に二回驚かされる作品です。
■『超能力偵探事務所』(2016年)陸菀華
陸菀華と言えば思い出すのは突拍子もない推理を展開して依頼者を犯人扱いして憚らない探偵と被虐的な助手のコンビが登場する『撸撸姐的超本格事件簿(ルルさんの超本格事件簿)』(2013年)です。バカミス寄りの作品でしたが、本作はその成分が薄くなりいわゆるユーモアミステリのジャンルに属します。
物語は私立探偵が禁止されている中国という環境を利用し、探偵事務所の設立が許可されている架空の都市を舞台に、決して凄いとは思えないどうしようもない超能力を持った探偵たちがこれまた個性豊かな他の事務所と共闘して謎の犯罪組織と対決するという話です。何事も絶対に当たらない超能力を持つ元ナイフ投げは、ナイフはもちろん推理も絶対に外すので彼が犯人だと指摘した人間は確実に無罪となることから探偵に選ばれるわけですが、このような推理に自信を持っている無能な迷探偵を超能力者の位置にまで高めて有能にする極端な価値の逆転は典型的なユーモア作品のそれであり、どんな人間でも探偵になれるという作者の意識を主張しています。
■『鏡獄島事件』(2016年)時晨
本作はアメリカのサスペンスドラマと日本の古きミステリ小説を踏襲したような孤島ミステリです。
鏡獄島という孤島にある精神病院で目を覚ました記憶喪失の女性Aliceは地獄のような環境からの脱走を試みます。一方、時晨のミステリ小説ではおなじみの探偵・陳爝と助手の韓晋は警官の唐薇から鏡獄島で起きた密室殺人事件の解決を依頼されて島に上陸しますが、不思議とAliceと陳爝たちは交わることがありません。
勘の良い人なら本を読む前に本書最大の謎に気付くかもしれませんが、それを含めて現代的ならぬ近代的な発想による現代の最新科学を利用した海野十三のようなトリックも、『ドグラ・マグラ』を思わせるシチュエーションも、『バットマン』のアーカムアサイラム収容所のような病院の描写はむしろ時晨のミステリ小説家としてのサービス精神の賜物と言えます。
■『阿爾法的迷宮(アルファの迷宮)』(2016年)王稼駿
本書は島田荘司推理小説大賞の常連入選作家である(そのうち第1回目の入選作である『魔術殺人事件』(2014年)は規定違反により取り消し)王稼駿の第4回KAVALAN・島田荘司推理小説大賞入選作品です。
他人の脳内に潜入でき、そこで現実世界同様の行動が取れて大脳の記憶と潜在意識を探ることができる『アルファの世界』がある世界で、連続少年失踪事件の容疑者の脳内を捜査することになった科学者の童平はその容疑者の脳内で殺されかけます。ここまでは単なるバーチャル空間を題材にしたSFミステリですが、この後に童平が現実世界で交通事故を起こしてしまいその対応に追われることになります。他人の脳内に潜入するという先鋭的な科学要素と交通事故の死体処理という泥臭さが混じった本作は、徐々に現実が曖昧になるというお決まりの展開がありながらも、王稼駿の作品らしく読者の予想を裏切る行動を取る登場人物がいるおかげで着地点が読めません。
もともと海外ミステリの出版で名を馳せた新星出版社は昔から中国ミステリを多少なりとも出していますが、このように個性的な中国人作家の本格ミステリ小説が市場に出るタイミングでトークショーを開いて読者との交流の機会を設けていき、今後の中国ミステリ界を牽引してもらいたいです。
阿井 幸作(あい こうさく) |
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中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。 ・ブログ http://yominuku.blog.shinobi.jp/ ・Twitterアカウント http://twitter.com/ajing25 ・マイクロブログアカウント http://weibo.com/u/1937491737 |
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第26回:中国人の日本ミステリ小説翻訳者・張剣とのインタビュー(執筆者・阿井幸作)
8月18日から22日まで上海へ行き上海ブックフェア見学をしてきました。当初はブックフェアがメインで毎日見て回ってやろうと思っていたのですが、一緒に行動していた友人のおかげで思いかけず多くの中国人ミステリ小説家や読者と交流を深め、貴重な経験をすることができました。
上海ブックフェアの模様は私のブログ( http://yominuku.blog.shinobi.jp/ )に掲載していますので良かったら見てください。
さて、今回は私が以前から気になっていた日本のミステリ小説を翻訳する中国人翻訳者にスポットを当てています。ここに紹介する翻訳者の張剣と私は顔見知りの仲で彼が翻訳者だと知った時から中国の翻訳事情をいろいろ聞いてみたいと思っていたため、今回こういう機会を作ることができて自分としても嬉しいです。
ちなみにインタビューはメールによるアンケート形式で張剣には日本語で回答してもらっています。
◆翻訳者としての経歴
- 名前:張剣
- 年齢:29歳
- 性別:男性
- 日本語能力試験:1級
◆これまでの翻訳実績
- 注:日本語のタイトルの後ろに中国語のタイトルを記入しています。
- ()の中は中国大陸での出版年月と発行した出版社の名前です。
- 法月綸太郎『しらみつぶしの時計/唯一正確的時鐘』(2011年5月/吉林出版 七曜文庫)
- 光原百合『十八の夏/十八之夏』(2011年12月/吉林出版 七曜文庫)
- 土屋隆夫『天狗の面/天狗面具』(2013年5月/吉林出版 七曜文庫)
- 土屋隆夫『物狂い/物狂』(2013年5月/吉林出版 七曜文庫)
- 泡坂妻夫『奇術探偵曾我佳城全集/奇術師偵探曾我佳城・戯之巻 秘之巻』(2013年12月/吉林出版 七曜文庫)
- 島田荘司『UFO大通り/UFO大道』(2014年7月/新星出版社 午夜文庫)
- 辻村深月『本日は大安なり/今日諸事大吉』(2014年12月/新星出版社 午夜文庫)
- 奥田英朗『最悪/最悪』(2015年6月/吉林出版)
阿井:上記以外で翻訳した作品はありますか。
張剣:上甲宣之の『そのケータイはXXで』です。ただ、この作品は趣味で翻訳したものであり、出版社から依頼されたものではなくまだ完成していません。
阿井:もし完成したら出版社に売り込むつもりはありますか?
張剣:そういう予定はまだありません。
阿井:日本語を勉強することになったきっかけは何ですか?
張剣:中学二年生の時、テレビゲームの『バイオハザード』シリーズにはまって、ゲームに登場する文書の内容を知るために日本語を勉強し始めました。
阿井:ミステリ小説を翻訳したきっかけはなんですか。
張剣:特にありませんね。単なる趣味です。
阿井:最初に翻訳した小説はなんですか。
張剣:中学二年生の時にアメリカ人作家R・L・スタインの「グースバンプス」シリーズの『Attack of the Graveyard Ghouls』を翻訳しました。ただし完成させられず、翻訳の質も悪いです。
阿井:その小説を翻訳しようと思ったのは何故ですか。
張剣:日本語を勉強する前は英語が得意だったので夏休みの暇潰しに英語の小説を翻訳しようと思ったからです。
阿井:中二から英語ができて翻訳したり、日本語を勉強しようとしたり学習意欲が高いですね。張剣さんみたいに学生時代から翻訳を始める人って多いんでしょうか。
張剣:私が知る限りそういう人はいませんね。ただ、私の大学の先輩に小説の翻訳者がいるそうです。
阿井:好きなミステリ小説家はいますか。
張剣:一番好きな作家は松本清張と森村誠一です。
阿井:その二人の作品は多分ほぼ全て中国語に翻訳されていると思いますが、もし機会があれば翻訳してみたいですか?また、どの作品を翻訳したいですか?
張剣:この二人の作品はだいたい1980年代に翻訳されましたが、まだまだ「ほぼ全て」と言うには遥かに及ばないと思います。もちろん機会があればまだ中国語に翻訳されたことがない作品を是非とも翻訳してみたいと思います。
阿井:小説を翻訳して出版したきっかけはなんですか。自分から出版社に連絡したのですか。
張剣:2011年(24歳の頃)の夏に法月綸太郎の短編集『しらみつぶしの時計』の中の一篇を翻訳してSNSサイトの『豆瓣』【※1】に発表したところ、その数日後に編集者からメールで「この作品はうちの出版社から出版する予定ですので全て翻訳してもらえませんか」という連絡がありました。これがきっかけです。
阿井:スカウトされたみたいで面白いですね。張剣さんみたいなパターンはよくあるんですか?
張剣:普通は友人から推薦される場合が多いです。
翻訳業務の説明
阿井:これまで出版した翻訳小説は全て張剣さんが自分で作品を選んだのでしょうか。それとも出版社が張剣さんにこの本を翻訳するよう依頼したのですか。
張剣:主に出版社からの依頼です。
阿井:その依頼の時は出版社から翻訳する小説を一冊だけ提供されましたか。それとも数冊の候補があってその中から張剣さんが選んだのでしょうか。
張剣:数冊の候補があってその中から選んだのです。
阿井:選ぶ基準ってありますか?
張剣:私は翻訳をする際にはいつもその作品の面白さ、翻訳の難易度、納品の日程を見て選んでいます。実は京極夏彦や三津田信三の作品も翻訳したかったのですが難易度が高かったので諦めました。
阿井:日本語版の原著は出版社から提供されますか。またどういう形態で提供されるのでしょうか。
張剣:出版社から書籍の形態で提供されます。
阿井:出版社から提示される納期はどのくらいですか。
張剣:納期は私が出版社に提示します。「本のページ数÷2又は3+3ヶ月の訳文修正期間」で計算して納期を算出します。
阿井:一日平均何文字ぐらい翻訳しますか?
張剣:平日は単行本・文庫本2〜3ページ(2,000文字程度)で、週末は8ページ程度(5,000〜6,000文字程度)翻訳します。
阿井:翻訳料金は1,000文字いくらですか。
張剣:中国語の翻訳文の文字数で、1000文字60人民元(税込)【※2】です。(注:1元15円)
阿井:ということは『UFO大道』は124,000文字(注:中国の書籍は巻頭か巻末に文字数が記されている。画像参照)ですからだいたい7,400元ぐらいですか。かかった時間を考えるとちょっと安いなという気がしますがこれは最低単価で経験を積めば高くなるのでしょうか。また印税はありますか?
張剣:1000文字60人民元は最低単価ではありません。例えば『しらみつぶしの時計』の翻訳単価は1000文字50人民元でした。また、私は印税をもらっていません。
阿井:話を聞いていると中国で翻訳者だけを仕事にして生活していく大変難しそうですね。と言うより兼業じゃないと無理ですね。(注:張剣自身も会社勤めの身である)
張剣:そうですね、文学翻訳者だけを仕事にしていると飢え死にするでしょう。私の場合は翻訳料金をもらう日が翻訳した本が出版される日から三ヶ月以内と設定されていました。しかし訳文を納品した日からその本が出版されるまで1ヶ月以上かかり、中にはいつ出版されるかわからない本もあります。例えば、『××』は2011年に翻訳を完成して納品しましたが出版されたのはそれから数年経ってからです。だから何もしていないと飢え死にするしかありません。もちろん文学以外の翻訳を仕事にしていれば大丈夫だと思います。普通の翻訳会社の場合は毎月料金が振り込まれますからね。
阿井:翻訳作業中にわからないことがあった場合はどうしますか。
張剣:インターネットで他の人から教えてもらいます。
阿井:それって例えば豆瓣とかでですか? そういうときって「いま、○○の本を翻訳しているけどここがわからないから教えて」とか言うんですか?
張剣:一般的に日本に留学している友達に聞きます。その友達に本の名前は言わず、わからない文章にマーカーを引いて前後の文脈を含めた文章を送ります。【※3】
阿井:作者本人と連絡を取ることはありますか。
張剣:取ったことはありません。
阿井:今まで翻訳した小説の中で一番難しかった作品はどれですか。
張剣:特に難しかった作品はありませんが、作品に俳句や和歌があれば大変です。
阿井:シリーズ物の作品を翻訳することがあると思いますが他人が翻訳した過去の作品を参考にすることがありますか。
張剣:人名や地名等の固有名詞のみ参考にします。
阿井:翻訳をする際に気をつけていることはありますか。
張剣:固有名詞を一致させることに特に気をつけています。
阿井:出版社の校正はありますか。
張剣:あります。
翻訳やあとがきに関する考え
阿井:中国の翻訳小説って同じ作家やシリーズでも翻訳者が一冊ごとに違うことがよくありますが、そのことについて張剣さんは何か意見がありますか?自分もこの作家の翻訳をずっとやりたいなど。日本人の感覚だと翻訳者が毎回異なるということは不思議に見えます。
張剣:私も同じ作者の作品は同じ翻訳者が翻訳したほうがいいと思います。私の考えでは、まずいろんな作者の作品を翻訳してみて、自分に合った作者を見つけたらあとはその作者の作品のみに専念したほうがいいと思います。
阿井:張剣さんもたくさん翻訳小説を読んでいると思いますが今までこの小説の翻訳は下手だなぁと思ったことはありますか。
張剣:たまにはあります。(注:中国では原著を読んでいる読者が多いせいか「あの翻訳は酷かった」という話がよく出る)
阿井:ネット、あるいは直接的な形で自分の翻訳の評価を聞いたことがありますか。
張剣:私はいつも『豆瓣』の評価を参照します。
阿井:張剣さんにとって中国で翻訳者になるのは簡単だと思いますか。
張剣:普通の翻訳者になるのはそんなに難しくありませんが、いい翻訳者になるのは大変だと思います。
阿井:張剣さんの言う「いい翻訳者」とは何を指しますか?
張剣:原文の理解と訳文の表現の両方が優れている翻訳者です。
阿井:日本の翻訳小説の多くには翻訳者のあとがきが掲載されていますが中国の翻訳小説にはそれが滅多にありません。張剣さんも今まであとがきを書いたことはないと思いますがそのことについて意見はありますか。
張剣:あとがきを書くには評論の能力が必要だと思います。しかし翻訳者がその能力を有しているとは必ずしも限りません。
阿井:翻訳小説に翻訳者のあとがきがないのは中国では翻訳者の地位がまだ高く見られていないからだと私は思いますが、張剣さんはあとがきを書きたいと思いますか。
張剣:書きたいですが、その能力がありません。
阿井:今後翻訳したい小説はありますか。
張剣:飴村行の『粘膜シリーズ』です。怪異な内容が私の読書趣味に合っています。
阿井:私もそのシリーズが大好きなので是非とも中国語版を読んでみたいですね。でも角川ホラー文庫だから今まで翻訳したミステリ小説とは勝手が違いますよね。それに、あの本はグロテスクだし日本軍も出てきますから中国だと出版が難しい気がしますがどうでしょう。
張剣:出版できないのならばその訳文を『民翻』(注:出版社を介しない個人的な翻訳)としてブログに掲載しても良いです。
阿井:今まで翻訳した本はどれもミステリ小説ですが、張剣さんは実はホラー小説を翻訳したいんじゃないですか?でもホラー小説はあまり中国語訳されないからミステリ小説を翻訳しているとか。
張剣:いいえ、ホラー小説とミステリ小説両方とも好きですから、どちらも翻訳していて楽しいです。
【※1】:SNSサイト『豆瓣』には個人が書いた小説、映画等のレビューがある他に、同好の士によるサークルが多数存在し、その中に多くの翻訳サークルがある。また、中国の検索エンジン・百度の掲示板で訳文を発表しているアマチュア翻訳者が多い。
【※2】:1,000文字60元という価格設定は中国の文学翻訳における標準価格とも言える。1999年に施行された『出版文学作品報酬規定』には各種文学作品の費用が細かく決められていて、翻訳作品は1,000文字20元〜80元と定められた。この規定は2014年に『使用文字作品支付報酬辦法』と修正され、そこでは1,000文字50元〜200元と定められている。
【※3】:私も一度張剣から質問を受けたことがある。そのときは問題の文章がある1ページだけを見せられて、何の作品だかはなかなか教えてもらえなかった。確か主語が不明瞭な一文だったと記憶している。
総括
張剣とは顔見知りということもあり気楽に質問することができたが、彼の翻訳に対する意識には中国で海外のドラマやアニメ、そして小説や漫画等を無料で翻訳する『翻訳組』と似た考えが見えた。それは、翻訳をする能力も情熱もあるがプロ意識が薄いことである。翻訳という行為自体を楽しんでいる、ある意味で健全な姿勢だがそれで得られるのはアルバイト以下の給料であり、出版された本には翻訳者の名前以外の経歴を書かれることが少なく、翻訳者のプロフィールは読者からは全く見向きされない。
張剣は「あとがきを書く能力がない」と言うが、翻訳する本のほとんどが出版社から頼まれているだけなので能力以前にその作品に愛着がないからあとがきなど書きようがないというのが正しいと思う。
私はあとがき肯定派、というよりも原著が日本語の本を買うのならあとがきなり序文なりの原著にはない中国語版ならではの付加価値が欲しいので是非とも望んでいるのだが張剣の反応を見るとそれはまだ難しいようだ。
補足するが全ての翻訳小説にあとがきがないわけではなく、私が以前見かけた欧米ミステリには翻訳者による序文があった。また、翻訳者によるものではないが、京極夏彦の『京極堂シリーズ』にはミステリ評論家・凌徹による序文があったし、夢野久作の『ドグラ・マグラ』にも日本ミステリに詳しい評論家の天蠍小猪が寄せた10ページ以上の夢野久作の紹介文がある。ただし一般的な翻訳ミステリ小説には翻訳者や評論家の寄稿文はほとんどない。
また、張剣が難易度が高いために諦めたという京極夏彦と三津田信三に関して言えば、前者の『京極堂シリーズ』や『巷説百物語シリーズ』は王華懋という翻訳者が多く担当しており、後者の『刀城言耶シリーズ』は日本在住の翻訳者・張舟が主に担当している。だから出版社側にも同一作者には同一の翻訳者を担当させるという意識はあるらしい。
張剣は飴村行の『粘膜シリーズ』を自ら進んで翻訳し、出版する機会がなければネットにアップしたいと言っているが、それは彼がデビュー前にやっていたことと同じである。そこからまた出版の道が開ける可能性もないことはないが、いくら発表の場がないとは言え無料公開は将来の翻訳者の首を絞めることになるのでは思う。ただその考え方は『翻訳組』の行動理由と似ていて、ネットで公開すれば多数の人間から直接反応をもらえるから無料公開する方がむしろ翻訳者が望んでいる評価を得られるかもしれない。それに、中国で正式に公開されていない作品の翻訳は当然ウケるのである。
現在、張剣は仕事の多忙を理由に翻訳から身を引いている。しかし中国では毎月各国のミステリが翻訳出版され、一人の翻訳者が休んでいるからと言っても出版社は待ってくれず、都合がつかなければ別の翻訳者を探す。それこそネットには数多の翻訳者予備軍がひしめいているのだ。だが出版社側は一部の作品を除き翻訳者を指定してはいないが、翻訳者側も本当に自分が翻訳したい作品で出版される見込みのないものは出版社を頼らずネットに投稿しても構わないと考えている。この辺りに両者の強かさを感じるが、それで中国のミステリ翻訳業界が発展するとは私には到底思えない。
張剣には是非とも今後も翻訳を続けてもらい、「○○先生の作品と言えば張剣の翻訳でなくちゃ」と出版社にも読者にも思われて欲しい。
阿井 幸作(あい こうさく) |
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第25回:上海ブックフェアと中国の伊坂幸太郎人気(執筆者・阿井幸作)
今年も中国の本の祭典『上海書展(以下、上海ブックフェア)』の季節がやって来ました。
(上海ブックフェア公式サイト(中国語のみ): http://www.shbookfair.cn/shBookfair/ )
8月17日から23日までの間、上海に中国全土の出版社が集まり、中国のみならず世界各国の書籍が披露・販売されるこのブックフェアは中国国内外から作家をゲストとして招いて開くトークショーやサイン会もまた目玉イベントになっています。
今年は中国のミステリ読者にとって朗報があり、吉田修一と伊坂幸太郎が上海にやって来ます。
吉田先生は8月17日と18日の二日間活動し、17日には「従『悪人』到『怒』、又温柔又冷酷的日本文壇跨界天才吉田修一(『悪人』から『怒り』へ、優しくて冷酷な日本文學界を股にかける天才吉田修一)(仮訳)というタイトルのトークショーを中国の脚本家・史航と行う予定で、18日には『怒り』と『パレード』のサイン会を開きます。
伊坂先生は19日から21日までの間トークショー及びサイン会を開いてくれますが、中国人読者にとっては残念なことに19日と21日のトークショーは限定50という人数制限が設けられました。8月9日に以下のURLサイトを通じて予約受付が開始されたのですが、19日は198元(約3,000円。新書の『キャプテンサンダーボルト』の代金含む)、21日は128元(約2,000円)という価格が設定されていたにも関わらず、噂によると開始10分で完売したらしいです。
(伊坂幸太郎トークショー及びサイン会告知ページ(中国語のみ):http://mp.weixin.qq.com/s?__biz=MjM5NzY2NDI4MQ==&mid=2841225286&idx=1&sn=5841bef1ee1ca561ea2cc098f607564e#rd)
私も伊坂先生のトークショーを期待して8月18日から22日まで上海ブックフェアに行く予定だったのですがこの50名の枠に入ることはできませんでした。『我不是推理作家(私はミステリ作家ではない)(仮訳)』というタイトルのトークショーで島田荘司作品を愛読していた伊坂先生が中国人読者に一体何を語り、中国人読者が何を質問するのかが知りたかったのですが残念です。しかし20日のサイン会は人数制限なしで12時から15時までの3時間という長丁場が用意されていますので、トークは聞けないとしても参加者全員サインを手に入れることはできるでしょう。
今回の伊坂先生のサイン会は新星出版社という海外ミステリを大量に翻訳出版している会社が主催していますが、2014年の島田荘司・麻耶雄嵩両先生のときのサイン会も彼らでした。2014年の両先生のサイン会は大盛況でしたが主催側の予想を超える人数が来場したため現場が混乱して、列に並んだ多くの人が結局サインをもらえなかったという出版社にとっても読者にとっても苦い記憶があります。
そのためか伊坂先生のサイン会は2014年と同じ轍を踏まないぞという新星出版社の意気込みが注意書きから見て取れます。
画像赤線枠内には――
【1】日本側の要望によりサインは一人一冊までとする。もし二冊以上のサインを求める人がいたらイベント即中止。伊坂先生と一緒の写真撮影禁止、握手禁止。
【2】イベントは15時で終了し現場スタッフが撤収させる。列に並んだのにサインをもらえなかった人のために貴重な記念品を用意している。
――という内容が書かれています。
実は人数制限があって有料のトークショーを開く新星出版社に対してSNSなどでは批判の声が上がりましたが、前回はサイン会だけで島田・麻耶両先生のトークショーはなかったはずですのでこれは進歩と言えるかもしれません。
また今回新星出版社側が提示した要求はちょっと厳しく、機械的で血が通っていないように見えますが2014年のときの混乱を経験した者からすればこれは当たり前の措置です。当時の混乱の最大の原因はサインの冊数の規定がなかったことで、日本のサイン会事情はよくわかりませんが中国では一人で数冊(持参含む)持って作家にサインをもらうことが珍しくありません。その結果、長時間並んでサインをもらえなかった人と何冊もサインをゲットできた人の明暗がはっきり分かれてしまい不公平感が出ました。
前回の失敗を踏まえて今回は出版社、読者そしてゲスト作家に不満が残らないような結果を残し、来年も引き続き日本からミステリ作家が来てもらえるようにしたいですね。
さて、上海ブックフェアに訪れる伊坂幸太郎は中国ではどれぐらいの知名度を持っているのでしょうか。
2016年現在、伊坂先生の作品は『死神の精度』や『ゴールデンスランバー』など合わせて30作品以上が中国大陸で翻訳出版されています。その魅力はしばしば中国で圧倒的な人気を誇る東野圭吾と比べられ、東野先生は作品のラストが後味悪いものが多いのに対し、伊坂先生の作品は絶望の中にも希望が見えると語られます。また村上春樹との相似性が挙げられることも中国での人気を証明しているかもしれません。
また仙台在住ということも中国人には知られており、今回のサイン会に行けない人が「だったら仙台に行ってサインをもらう」と負け惜しみを言っていましたし、2011年3月11日の東日本大震災の際には伊坂先生を心配する声がSNSに上がりました。
そして昨今の中国での日本ミステリ映画化ブーム(参照:第14回:中国ミステリと東野圭吾)には伊坂作品も対象になっており、2016年5月に女性映画監督・李玉がインタビューで伊坂幸太郎原作の『陽気なギャング』の映画を撮影すると語っています。(記事では『陽気劫匪』(陽気なギャング)としか書かれておらず当シリーズのどの作品を映画化するのか具体的なことは不明です。)更に『砂漠』も中国映画界から注目されており、その実現化は案外早く訪れるかもしれません。
伊坂先生の中国人気を調べれば調べるほどトークショーがあっという間に完売したことも納得できます。伊坂幸太郎の中国訪問は中国人読者にとって念願であり、新星出版社などの努力が実を結んだ結果なのでしょう。伊坂先生が上海でどのような歓迎を受けるのかが非常に気になるところであり、トークショーに行けないことがますます悔やまれます。
阿井 幸作(あい こうさく) |
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中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。 ・ブログ http://yominuku.blog.shinobi.jp/ ・Twitterアカウント http://twitter.com/ajing25 ・マイクロブログアカウント http://weibo.com/u/1937491737 |
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第24回:中国のネット小説サイトについて(執筆者・阿井幸作)
中国にいて驚かされることの一つに一般書店でもアマゾンなどのネットショッピングサイトでも本を定価より安く買うことができることがあげられます。
例えばこの本の定価は32元(約500円)ですがアマゾンでは現在約30%OFFの約23元で売られています。一般書店ではだいたい10〜20%ぐらいの値下げ幅です。
更に日本人が驚愕するのが電子書籍の異常な安さです。
上記の本をまた例に挙げますと電子書籍の定価がすでに紙媒体の60%OFFに12元に設定されていますが、Kindleだと更に値引きされてなんと紙媒体の約80%OFFの6元という値段で売られています。
海外の作家の本も同様で、『容疑者Xの献身』がKindleだと定価の約80%OFFになっています。
日本の値引き率が一体何なんだろうと思ってしまうほどでの安さで一体どんな利益配分になっているのかわかりませんが作家の生活が心配になる値段です。とは言え無料でダウンロードされる海賊版と比べたら売り上げになるだけいいのかもしれません。
このように電子書籍が安価で場合によっては無料で読めるという環境にあるせいか、私が生活している北京の地下鉄などでは紙媒体よりも携帯電話などで電子書籍を読む人の割合が多く感じられます。もしくは彼らが読んでいるのは電子書籍ではないネット小説かもしれません。ネット小説もまた驚かされるほど多く、ジャンルとしては中国系ファンタジー小説や恋愛小説が主なのですがミステリ小説のジャンルもきちんと確立されてなかなか侮れません。
そこで今回は中国ミステリのネット小説を無料で読むことができるサイトを紹介します。
http://focus.tianya.cn/
この天涯社区はBBSやブログが主なのですが『天涯文学』というカテゴリにはネットユーザーによる歴史、ファンタジー、青春、ホラー小説などが投稿されていて、その中に『懸疑推理』(直訳するとサスペンスミステリ)のジャンルがあります。
中には実際に出版までに至った作品があり、例えば以前本コラムの第8回で取り上げた紫金陳の『高智商犯罪』シリーズももともとは『謀殺官員』シリーズという名前でここに連載しており、その結果天涯文学が選ぶ2012年度の十大作者及び十大作品に選ばれました。また、実際にあった事件をもとにしたサスペンス小説『十宗罪』も蜘蛛という作家がここで連載していたネット小説でありますが、今ではウェブドラマ化まで決定している有名作品となりました。
ここでは閲覧数やお気に入り数を見ることができてどの作品に人気があるのか一目瞭然です。またキーワード検索もできるので意外な名作を発見できるかもしれません。とは言え一通り見た限りだとサスペンス色が強い作品が大半を占めているようで、トリックのある密室殺人が発生する…ようなミステリは少なそうです。(キーワード検索で詭計(中国語でトリック)や密室を入力してみましたがあまりヒットしませんでした)
もう一つはライトノベルサイト『軽文軽小説』(直訳するとジュニアノベル・ライトノベル)です。
https://www.iqing.in/
少年少女向けのネット小説サイトでオリジナル作品もあれば同人作品もあります。タグの数を見ればジャンルがどのくらい細分化されているのかわかるでしょう。そして、『日常』とか『百合』とか『戦争』などのタグに紛れて『推理』タグがあります。
さすがライトノベル投稿サイトだけあって面白いタイトルの作品が多く、学園青春ミステリの『我的青春Flag無縁無故被抜了』(オレの青春のフラグがなんの理由もなく折られた)や、学園ハーレムミステリの『普通男生与魔法戦姫的学園戦争』(普通の男子と魔法の姫の学園戦争)など読者の興味を引きそうな作品があります。
そしてこのサイトでは作者のやる気を出させるために少額ではありますが様々な賞を設立しています。過去の受賞作品を見てみるとそのほとんどがファンタジーだったり学園モノだったりしますが『推理』タグのついている作品もきっちり授賞されています。更に現在は『耀星賞』という大賞が設立されて優秀作品には書籍化を含む特典の授与が予定されています。
その他にミステリに関係したライトノベルのニュースに中国の青少年向け雑誌『意林・軽小説』が作品を募集していることがあげられます。
http://www.weibo.com/ttarticle/p/show?id=2309403978658854383525
要項に青春学園モノとサスペンスミステリを合体させた『青春懸疑』(青春サスペンス)を主に募集していると書いてあり期待させられるのですが、注意事項に低俗なものや暴力的描写がある作品は対象外と書いているのが気になります。中国で少年少女を対象にしている以上作品に制約がかけられるのも仕方ありませんが、ライトノベルというジャンルでこの規制を設けるのが果たしてこの分野の将来のためになるのかは疑問です。
この制約だらけの中国でどんな作品が生まれるのか楽しみではあるのですがそのジャンルの魅力自体を殺しかねない制約がついてしまっては元も子もありません。とは言え雑誌とは違いネットだと人気の有無がすぐにわかりますし、誰でも参加できますし、実験的な作品が生まれる土壌でもありますから今後も注目していきたいです。
阿井 幸作(あい こうさく) |
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中国ミステリ愛好家。北京在住。現地のミステリーを購読・研究し、日本へ紹介していく。 ・ブログ http://yominuku.blog.shinobi.jp/ ・Twitterアカウント http://twitter.com/ajing25 ・マイクロブログアカウント http://weibo.com/u/1937491737 |
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