2009年、私のベスト10暫定版第9回 その1(執筆者・小山正)


 ドン・ウィンズロウの大作『犬の力』の人気が高いねえ。それに匹敵するのが、北欧から登場した超弩級の新人スティーグ・ラーソンの大作『ミレニアム』シリーズだ。両者のどちらを上位とするかは個人の自由だが、私の場合は後者が上。『犬の力』も良かったが、心から胸がときめいたのは『ミレニアム』だった。
 確かに『犬の力』は読みごたえ満点だし、小説としての完成度も高い。だから多くの人がベスト10投票で高得点を入れるのも頷ける。私自身も各種投票で高得点を入れた。
 が、しかし。南北アメリカの麻薬戦争という題材と、そこに巻き込まれた人間たちの壮絶なドラマは、小説ではないけれどもウォルター・ヒル監督によるマニア好みの映画『ダブル・ボーダー』(一九八七)や、マイケル・マン制作のTVムービー『ドラッグ・ウォーズ/麻薬戦争』(一九九一)、近年だとスティーヴン・ソダーバーグ監督の傑作映画『トラフィック』(二〇〇〇)などで経験済みだった。そんな既視感もあったのだろう、私は複合建築のような巨大な謎解きミステリ『ミレニアム』のほうが新鮮さと衝撃度において勝っていると思った。やっぱり私は、稚気があって、知的興奮をともない、ミステリ・マインドにあふれる小説が大好きなのだ(もっと言うと・・・『犬の力』と『ミレニアム』のどちらを上に置くかで、その人のミステリ感がわかる、と言えるだろう。これはベスト10というモノの実態を解析する上でも重要なことだと思う。でも、それはまた別の話だ)。


さて今回の「私の暫定的なベスト10」は天の邪鬼にやらせて戴く。だって、ベスト10の投票も終わり、なんとなく「これが1位かな?」「2位はたぶんあれだ」というのが邪推できるこの時期にあって、私が今さら「第1位は『ミレニアム』で、第2位は『犬の力』」などと書いてもねえ。それより、ベスト10の投票とか関係なく偏愛・盲愛した私的ベスト10をご紹介した方がよっぽど楽しい。でもね、バカミス・ベスト10ではありませんよ。バカミスはもっと入念に時間をかけて厳選するものなので、こちらは別の機会に発表したい。
 というわけで、以下が「私のベスト10暫定版改め、ベスト10には決して入らないだろうけれども、でも本当にすばらしい作品だった“番外地・裏ベスト10”」。興が乗ってきたので洋書も挙げちゃえー。


1 『麗しのオルタンス』ジャック・ルーボー(創元推理文庫

麗しのオルタンス (創元推理文庫)

麗しのオルタンス (創元推理文庫)

2 『金剛石のレンズ』フィッツ・ジェイムズ・オブライエン(創元推理文庫
金剛石のレンズ (創元推理文庫)

金剛石のレンズ (創元推理文庫)

3 『死せる案山子の冒険』エラリー・クイーン論創社
死せる案山子の冒険―聴取者への挑戦〈2〉 (論創海外ミステリ)

死せる案山子の冒険―聴取者への挑戦〈2〉 (論創海外ミステリ)

4 『闇のオディッセー』ジョルジュ・シムノン河出書房新社
闇のオディッセー (シムノン本格小説選)

闇のオディッセー (シムノン本格小説選)

5 『修道女フィデルマの叡智』ピーター・トレメイン(創元推理文庫
修道女フィデルマの叡智 修道女フィデルマ短編集 (創元推理文庫)

修道女フィデルマの叡智 修道女フィデルマ短編集 (創元推理文庫)

6 『十の罪業Red & Black』 エド・マクベイン編(創元推理文庫
十の罪業 RED (創元推理文庫)

十の罪業 RED (創元推理文庫)

十の罪業 BLACK (創元推理文庫)

十の罪業 BLACK (創元推理文庫)

7 『ダブリンで死んだ娘』ベンジャミン・ブラック講談社ランダムハウス文庫)
ダブリンで死んだ娘 (ランダムハウス講談社文庫 フ 10-1)

ダブリンで死んだ娘 (ランダムハウス講談社文庫 フ 10-1)

8 『阿娘はなぜ』金英夏 (白帝社)
阿娘はなぜ

阿娘はなぜ

9 “Sherlock Holmes & Kolchak”Joe Gentile 他著(Moonstone books)
10“The Twilight and Other Zones”Stanley Water 他編(Citadel Pres)
The Twilight and Other Zones: The Dark Worlds of Richard Matheson

The Twilight and Other Zones: The Dark Worlds of Richard Matheson

(つづく)

2009年、私のベスト10暫定版第9回 その2(執筆者・小山正)

(承前)


 1位は、今年最もオシャレだったフレンチ・ミステリ。美人女子大学生オルタンスは金物屋が次々と襲われる事件に巻き込まれた。一方、彼女がバイトで勤めるパン屋には彼女目当ての客が殺到し、事件そっちのけで町中が大騒ぎとなるが・・・。ニヤニヤしてしまうような珍事件、怪現象が次々と起き、奇妙な登場人物たちや高貴な猫、果ては作者までがドタバタと入り乱れる愉快なミステリだ。そのおもしろさ、楽しさは、かつて大ヒットしたフランス映画『アメリ』(二〇〇一)を彷彿とさせる。というわけで『アメリ』ファンは必読。未訳の続編もぜひ出して欲しいなあ。


 2位は、純粋ミステリではなく、知る人ぞ知る十九世紀末のカルト幻想作家による名短編集。〈奇妙な味〉の嚆矢ともいえる怪奇幻想譚とサスペンス奇談が多数収録されている。しかし傑作ぞろいなのに、なぜか話題になっていない。なぜだ!というわけでエントリー。オブライエンは十九世紀末に活躍した異能の小説家で、サンリオSF文庫から短編集『失われた部屋』が出ていたが(この表題作も不気味で怖かったなあ!)、その時も味わいのある筆致と奥の深い物語性ゆえに、一部の好事家の間で「すごい作家だ!」と話題になった。今回もぜひ話題にして欲しい。


 3位は、一九三九年と四十年に放送されたエラリー・クイーンのラジオ・ドラマ集。謎解きの醍醐味と本格ミステリのすばらしさが満喫できて、ああ幸せ。クイーン先生が書いたモノなら、エッセイでも、手紙でも、領収書でもいいから読みたいというのは、熱狂的なファンなら誰もが持っている素直な気持ちだろう。その夢が実現したのだから、こんなすばらしいことはない。Bravo!


 4位は、名匠シムノンによる本邦書訳の心理サスペンス。仕事に不安を抱え、家族からも裏切られたパリの産婦人科医ジャン・シャポは、ある日〈熊のぬいぐるみ〉のような少女に出会う。しかし、そのおかげで、彼は破滅と絶望へと導かれていった・・・。犯罪に巻き込まれた人間の孤独と悲哀が見事に描かれており、重く暗い物語ながら、シムノン文学の神髄が満喫できる一篇。


 5位は、中世アイルランドの女性法廷弁護士フィデルマの活躍を描く歴史本格ミステリ短編集。彼女の探偵ぶりはスキがなさ過ぎて、逆にそこが不満なのだが、お話そのものはミステリ趣味にあふれていて大変楽しい。長い間封印されていた王の墓から悲鳴が聞こえ、その密室状態の墓室から死体が転がり出てきたり、不可能状況下で謎の毒殺が行われたりと、毎回凝った謎が読者に提出される。紀元七世紀のアイルランドの不思議な雰囲気もビビッドに伝わってきて、読書の愉しさが全開だ。


 6位は、上下巻あわせて千四百ページという超ボリュームの巨大なアンソロジージェフリー・ディーヴァー、ドナルド・E・ウェストレイク、スティーヴン・キングローレンス・ブロック、他、全十人の人気作家が中篇を書き下ろしており、どれも巻を置く能わざるおもしろさ。ウェストレイクのドートマンダー物「金は金なり」は他の書籍には読めないので、こちらでぜひ。


 7位は、アイルランドを代表する文学者ジョン・バンヴィルが別名義で書いた文芸ミステリ。ダブリンの病院で死んだ女性の死因の謎を病理医師が追うが、再び不可解な殺人が起きる・・・。こう書くといかにも平板なストーリーに思えるが、そこは一癖も二癖もある物語を書くバンヴィルだけあって、静かだが劇的なドラマが展開する。バンヴィルは初期の不思議な伝記フィクション『ケプラーの憂鬱』『コペルニクス博士』以外に、近年になって『バーチウッド』『海に帰る日』といった主流小説の代表作が翻訳されたばかりである。一筋縄ではいかない凝った文学世界がようやく明らかになってきたわけだが、エーゲ海を舞台としたミステリ色の強いメタ・フィクション・スリラーで傑作と名高い“Nightspawn”は未紹介のままだ。ベンジャミン・ブラック名義も未訳がまだ二作ある。こちらもぜひ訳して欲しいなあ。


8位は、これまた珍しい韓国の歴史ミステリ。四百年前に謎の死をとげた地方官の娘〈阿娘〉の秘話と、現代の男女の愛憎劇が一体化していくおもしろさ。しかも、事件の真相を探る際、李朝の歴史書や百年前の小説、歴史ノンフィクションやアメリカのミステリ映画などが参考素材として論じられる。ある種のメタ・フィクション的なユニークさもあり、これもまた高尚なバカミスといえるだろう。


ありゃ? なんだかバカミス紹介になってきたぞ。ならば勢いをつけて9位はとっておきの、未訳のバカミスを紹介しよう!
Sherlock Holmes & Kolchak”は、文字通り名探偵ホームズと事件記者コルチャックが時空を越えて怪奇事件を解決する全三巻のアメコミ。ワトスン博士の未発表ファイルを手に入れたコルチャックは、現在の視点から真相解明に挑んでいく。ホームズの活躍とコルチャックの捜査が同時進行で進んでいく。ああ、なんて素敵な夢物語だろう!でも翻訳でないだろうなあ。


 10位は小説ではないが、勢いで入れちゃえ! この本は、ミステリ、SF、ホラー、幻想怪奇のジャンルで偉大な作品を書き残した長老作家リチャード・マシスンのレファレンス本で、150ページにわたる著作リスト、脚本リスト、映像化作品リストがすばらしい。映画監督ロジャー・コーマンとマシスンが2ショットで談笑する、二〇〇五年に撮影された写真が感動的だ。マニアの方なら、この写真の凄さ/意味が、わかるよね?

 以上、最後は大脱線となったが、通常のベスト10には入らないような本でまとめてみた次第。お読み戴きありがとうございます。


 小山正

※今回で「私のベスト10暫定版」は終了いたします。ご愛読ありがとうございました。

失われた部屋 (1979年) (サンリオSF文庫)

失われた部屋 (1979年) (サンリオSF文庫)

ケプラーの憂鬱 (プラネタリー・クラシクス)

ケプラーの憂鬱 (プラネタリー・クラシクス)

コペルニクス博士 (新しいイギリスの小説)

コペルニクス博士 (新しいイギリスの小説)

バーチウッド (ハヤカワepi ブック・プラネット)

バーチウッド (ハヤカワepi ブック・プラネット)

海に帰る日 (新潮クレスト・ブックス)

海に帰る日 (新潮クレスト・ブックス)

2009年、私のベスト10暫定版第8回(執筆者・石井千湖)

1.アラン・ムーアフロム・ヘルみすず書房
 めくってもめくっても真っ黒な世界。〈脳内の水面下でおこなわれる活動はすべて魔術なのだ〉というガル博士の虜になり、気がつけば息をするのも忘れるほどのめりこんでいました。特に下巻第十章「この世で一番の仕立屋に」には震えが。

フロム・ヘル 上

フロム・ヘル 上

フロム・ヘル 下

フロム・ヘル 下

2.ジャック・ルーボー『麗しのオルタンス』創元推理文庫
フロム・ヘル』が暗黒のロンドンなら、こちらはパリの街を軽やかに描いた一編。 女性観光客鑑賞が趣味の食料店主、ときおりパンティをはき忘れる美女オルタンスなど、奇人変人揃いのキャラクター+猫が魅力的です。謎の青年がオルタンスに捧げる愛の告白に爆笑!
麗しのオルタンス (創元推理文庫)

麗しのオルタンス (創元推理文庫)

3.マット・ラフ『バッド・モンキーズ文藝春秋
 この小説の主人公、ジェインの告白は『麗しのオルタンス』とは別の意味でトンデモ。信頼できなさすぎる語り手なのですが、彼女の「語り」には単純に妄想といい切れない真実が含まれている。見た目がほぼドライヤーのNC銃とか、小道具もおもしろい。著者の作品をもっと読んでみたいと思いました。
バッド・モンキーズ

バッド・モンキーズ

4.マイケル・シェイボンユダヤ警官同盟新潮文庫
『バッド・モンキーズ』のポップな文体と比べると、かなり密度の高い文章。北極圏に築かれたユダヤ人居住区という架空の街が、驚くほどリアルに立ち上がります。父の世代の負債を継いだ息子たちの苦悩を描いているという点で、現代日本の若男子が読んでも共感できるのでは。
ユダヤ警官同盟〈上〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈上〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈下〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈下〉 (新潮文庫)

5.ジョナサン・キャロル『木でできた海』創元推理文庫
ユダヤ警官同盟』のような大きな歴史ではなくて、個人史のなかにある闇を描くのがキャロルはすごくうまい。次々と起こる奇妙な出来事の謎を追ううちに、思いもよらない場所へ連れて行かれます。
木でできた海 (創元推理文庫)

木でできた海 (創元推理文庫)

6.スティーグ・ラーソン『ミレニアム』早川書房
 歴史、経済、男女問題など、さまざまな要素がこってり詰め込まれたゴージャスなエンターテインメント。もう新作が読めないなんて、残念でたまりません。
ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女 上

ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女 上

ミレニアム2 上 火と戯れる女

ミレニアム2 上 火と戯れる女

ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士 上

ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士 上

7.アルトゥーロ・ペレス・レベルテ『戦場の画家』集英文庫
戦場カメラマンのもとを、被写体となって人生を狂わされた人物が訪ねてくる。当然、復讐しようとしているのかな、と思うのですが、話の展開の方向に意表を突かれました。
戦場の画家 (集英社文庫)

戦場の画家 (集英社文庫)

8.ジャック・カーリィ『毒蛇の園』文春文庫
9.タナ・フレンチ『悪意の森』集英社
 8位と9位には、気持ちいいほど突き抜けた悪が登場します。悪をエンターテインメントにしてしまうところが、ミステリーの罪深い、でもやめられないところ。
毒蛇の園 (文春文庫)

毒蛇の園 (文春文庫)

悪意の森 (上) (悪意の森) (集英社文庫)

悪意の森 (上) (悪意の森) (集英社文庫)

悪意の森 (下) (悪意の森) (集英社文庫)

悪意の森 (下) (悪意の森) (集英社文庫)

10.R・J・エロリー『静かなる天使の叫び』集英社文庫 
 これもやめられないとまらない一冊。主人公を見舞う悲劇の連続に「あんまりだ!」と思いながら、一気読みしてしまいました。
静かなる天使の叫び (上) (静かなる天使の叫び) (集英社文庫)

静かなる天使の叫び (上) (静かなる天使の叫び) (集英社文庫)

静かなる天使の叫び (下) (静かなる天使の叫び) (集英社文庫)

静かなる天使の叫び (下) (静かなる天使の叫び) (集英社文庫)

 自分の選んだ10冊を見て、脳内の水面下で起こっている魔術を描いたものが好きなんだなあと実感。そういう作品に、来年もすごい魔術に出会えますように。

 石井千湖

2009年、私のベスト10暫定版第7回・その1(執筆者・古山裕樹)

ドン・ウィンズロウ『犬の力』(角川文庫)

2ロバート・リテル『CIA ザ・カンパニー』(柏艪舎)
CIAザ・カンパニー〈上〉 (文芸シリーズ)

CIAザ・カンパニー〈上〉 (文芸シリーズ)

CIAザ・カンパニー〈下〉 (柏艪舎文芸シリーズ)

CIAザ・カンパニー〈下〉 (柏艪舎文芸シリーズ)

スティーグ・ラーソン『ミレニアム1〜3』(早川書房
ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女 上

ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女 上

ミレニアム2 上 火と戯れる女

ミレニアム2 上 火と戯れる女

ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士 上

ミレニアム3 眠れる女と狂卓の騎士 上

4ジョシュ・バゼル『死神を葬れ』(新潮文庫
死神を葬れ (新潮文庫)

死神を葬れ (新潮文庫)

5マット・ラフ『バッド・モンキーズ』(文藝春秋
バッド・モンキーズ

バッド・モンキーズ

6ブレント・ゲルフィ『狼のゲーム』(ランダムハウス講談社文庫)
狼のゲーム (ランダムハウス講談社文庫)

狼のゲーム (ランダムハウス講談社文庫)

ジョン・ル・カレ『サラマンダーは炎のなかに』(光文社文庫
サラマンダーは炎のなかに〈上〉 (光文社文庫)

サラマンダーは炎のなかに〈上〉 (光文社文庫)

サラマンダーは炎のなかに〈下〉 (光文社文庫)

サラマンダーは炎のなかに〈下〉 (光文社文庫)

8リサ・ブラック『真昼の非常線』(ヴィレッジブックス)
真昼の非常線 (ヴィレッジブックス)

真昼の非常線 (ヴィレッジブックス)

9スティーヴン・プレスフィールド『砂漠の狐を狩れ』(新潮文庫
砂漠の狐を狩れ (新潮文庫)

砂漠の狐を狩れ (新潮文庫)

10クリス・ライアン『ファイアファイト偽装作戦』(ハヤカワ文庫NV)
ファイアファイト偽装作戦 (ハヤカワ文庫NV)

ファイアファイト偽装作戦 (ハヤカワ文庫NV)


 各種アンケートの中にはすでに回答済みのものもあるので、実はもはや暫定ではない。これが正真正銘の今年のベスト10である。


 この一年に読んだ本の中で、最も鮮やかに心に焼き付いたのがウィンズロウの『犬の力』だった。
 数十年に及ぶドラッグ戦争。その中枢にあるのは二人の男の争いだ。数々の抗争を生き抜いて麻薬組織を率いる男と、麻薬取締のために人並みな幸せを投げ捨てて修羅と化した男。
 その対決を中心にして、メキシコ政界の腐敗、バチカンの思惑、さらにはコロンビアの内戦やアメリカの中米政策をも視野に入れながら、多数の人物を絡めて重層的に描いている。個人の小さなエピソードから、大国の思惑まで。地を這う虫の視点から、空を舞う鳥の視点までを自在に駆使してみせる。
 そして何より、激しい物語を語るにふさわしい、躍動する語り口が忘れられない。
 荒々しく重厚な叙事詩。今年に限らない、オールタイム・ベスト級の力作だ。


(つづく)

2009年、私のベスト10暫定版第7回・その2(執筆者・古山裕樹)


(承前)


 2位にはロバート・リテルの大河スパイ小説を。40年近くにおよぶ米ソの諜報戦からソ連崩壊にまで及ぶ、CIAの物語だ。
 個々のエピソードは、冷戦の最前線を舞台にしている。ハンガリーキューバアフガニスタン……。米ソが直接衝突しなかっただけで、冷戦というものが戦争に他ならなかったことを痛切に感じさせる。
 もちろん、KGBももう一方の主役だ。彼らが密かに進める計画が物語の軸であり、諜報機関としてはCIAよりも優秀な組織として描かれている。
 冷戦以降の視点から冷戦を振り返ったスパイ小説(だから、本書ではアフガニスタンが重要な役割を担っている)であり、重厚な歴史小説といってもいい。
 本書の刊行されるしばらく前に、調査報道ジャーナリストによる『CIA秘録』(ティム・ワイナー/文藝春秋)というCIA通史が刊行された。こちらも併せて読むと、本書の楽しみもさらに増すことだろう。


 3位には、多彩なアイデアが豊富に詰め込まれた、完成度の高い三部作を。
 三作のうちどれか一作だけ……となれば、孤高のヒロインの存在感が鮮烈で、さらに最後の最後まで油断できない『2 火と戯れる女』を選ぶ。ただしこのシリーズ、ある巻では余談としか思えなかったエピソードが、後の巻で重要な意味を帯びてくることも珍しくない。なので、必ず一作目から三作目まで続けて読んでいただきたい。
 ぜひ多くの方に読んでいただいて、海外ミステリの楽しさを知ってほしい。



 4位の『死神を葬れ』は、何を語るかはもちろん、どう語るかに力を注いだ作品だ。
 過去と現在を並行させた先の読めない構成はもちろん、悲痛なエピソードでさえも軽妙に語り、脚注をも巧みに駆使するそのスタイルも忘れがたい。最後の最後まで読者を翻弄する一冊。未読の方は、ぜひ手にとって翻弄されてください。



 5位の『バッド・モンキーズ』の土台にあるのは、正義と悪の秘密組織が戦っているという陰謀論的世界観。
 過剰にカラフルな武器、安っぽいアクション。そして何かにとり憑かれたかのようなヒロインの語りが、読者を不穏な陰謀妄想世界に引きずり込む。
 中途半端にP・K・ディックを模したような残念なオチだったらどうしよう……という懸念はきれいに吹き飛ばされ、見たこともないような異形のラストへと突入する。
 総合的な順位はこの位置だけど、アクの強さでは今年のトップだ。


(つづく)

CIA秘録上

CIA秘録上

CIA秘録 下

CIA秘録 下

2009年、私のベスト10暫定版第7回・その3(執筆者・古山裕樹)


(承前)


 6位の『狼のゲーム』は、暗黒ロシアを舞台にした、暴力過剰の物語。本書については、先日「私設応援団」で紹介したとおり。


 7位は、ジョン・ル・カレの、一見すると冷戦回顧風味の作品。ただし、実は9・11をテーマにした作品である。冷戦時代の緊密さに代わって、自由で奔放なスタイルで書かれた物語。だが、その遠回りしがちな語り口は、紛れもないル・カレのものだ。
 遠回りな語り口ながら、アメリカに対する批判はストレート。そのメッセージは、執筆時のブッシュ政権が退陣し、オバマ政権に交代した今でも意義を失っていない。


 8位の『真昼の非常線』には驚かされた。銀行強盗事件を描いたサスペンスだが、ある事実の提示によって、これまで読んできた物語の構図が一変する。これまで読んできた物語の意味が、全く違うものに書き換えられてしまう。読み終えた部分をも巻き込んで驚きが遡行する、ミステリならではの楽しさを満喫できる作品だ。


 9位と10位は冒険小説。
 9位は第二次大戦下の北アフリカでドイツ軍と戦うことになった英国青年の物語だ。単なる移動も命がけの冒険と化す砂漠という環境もさることながら、多くのエピソードを通じて語られる「英国的」な事物が心に残る小説だ。
 志願して戦場に赴いた主人公たちの英国的アマチュアリズムと、名将・ロンメル元帥に体現されるドイツ的プロフェッショナリズムとの対決、として読むこともできる。

 
 その北アフリカの戦いで生まれたのが、イギリス陸軍の特殊部隊SAS。10位は、そのSAS隊員(あるいは元隊員)を主人公にした冒険小説を書き続けているクリス・ライアンの作品だ(本人も元SAS隊員)。
 ポスト9・11の「テロとの戦い」という枠の中で幕を開ける冒険活劇は、数々の「お約束」の積み重ねでできている。どんでん返しによって「テロとの戦い」という枠から飛び出してしまうのも、実はお約束の一つ。
 主人公と対決するムスリム戦士は格好よく、身内の英米情報機関は嫌な連中として描かれるという英国作家らしいひねくれ具合も、スパイスとして効いている。


 古山裕樹

2009年、私のベスト10暫定版第6回・その1(執筆者・中辻理夫)

1『静かなる天使の叫び』R・J・エロリー(集英社文庫)

静かなる天使の叫び (上) (静かなる天使の叫び) (集英社文庫)

静かなる天使の叫び (上) (静かなる天使の叫び) (集英社文庫)

静かなる天使の叫び (下) (静かなる天使の叫び) (集英社文庫)

静かなる天使の叫び (下) (静かなる天使の叫び) (集英社文庫)

2『犬の力』ドン・ウィンズロウ(角川文庫)
3『真昼の非常線』リサ・ブラック(ヴィレッジブックス)
真昼の非常線 (ヴィレッジブックス)

真昼の非常線 (ヴィレッジブックス)

4『余波』ピーター・ロビンスン(講談社文庫)
余波 上 (講談社文庫)

余波 上 (講談社文庫)

余波 下 (講談社文庫)

余波 下 (講談社文庫)

5『震え』ピーター・レナード(ランダムハウス講談社文庫)
震え (ランダムハウス講談社 レ) (ランダムハウス講談社文庫)

震え (ランダムハウス講談社 レ) (ランダムハウス講談社文庫)

6『時限捜査』ジェイムズ・F・デイヴィッド(創元推理文庫)
時限捜査上 (創元推理文庫)

時限捜査上 (創元推理文庫)

時限捜査下 (創元推理文庫)

時限捜査下 (創元推理文庫)

7『バッド・モンキーズ』マット・ラフ(文藝春秋)
バッド・モンキーズ

バッド・モンキーズ

8『ユダヤ警官同盟マイケル・シェイボン(新潮文庫)
ユダヤ警官同盟〈上〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈上〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈下〉 (新潮文庫)

ユダヤ警官同盟〈下〉 (新潮文庫)

9『ベツレヘムの密告者』マット・ベイノン・リース(ランダムハウス講談社文庫)
ベツレヘムの密告者 (ランダムハウス講談社 リ 5-1) (ランダムハウス講談社文庫)

ベツレヘムの密告者 (ランダムハウス講談社 リ 5-1) (ランダムハウス講談社文庫)

10『州知事戦線異状あり!』トロイ・クック(創元推理文庫)
州知事戦線異状あり! (創元推理文庫)

州知事戦線異状あり! (創元推理文庫)


 作品に対し程好い距離を取りつつ、読書できる。これは翻訳ミステリーに接するときの魅力の一つであろう。
 例えば、4位のピーター・ロビンスン『余波』は連続少女殺人とドメスティック・バイオレンスを物語の主軸に置いているのだけれど、舞台は北イングランドの田舎町で、季節の移ろいを感じさせる叙情的な風景描写も読みどころだ。残虐な事件が、この日本ではない、どこか別の場所で起きている、という安心感が私たちに心の余裕を与えてくれる。でありながら、その遠い国であっても、悲惨な状況に遭えば人は同じ思いを抱くものだとも感じる。ここが重要だ。
 主人公のアラン・バンクスは警視代行という高い地位にあるのだが、感受性の強いデリケートな人物として設定されている。被害少女の家族に聞き込みをするとき、表面上はドライに接している。しかし内面では自身の少年期を回想したり、娘について思いを馳せたりと、目まぐるしく情動が波打つ。このあたりの心象風景に接すると、どこに住もうが、どこの国籍であろうが人は皆同じだ、と読者は感じずにはおれないだろう。
 遠い場所に住んでいるけれども自分とさほどかけ離れていない人と小説のなかで出会う(あるいはその人に変身した気分になる)ことで、読者は空想上ではあっても日本を飛び出し、世界中、地球そのものと一体化したような解放感を得るのだ。これが本作に限らず、翻訳ミステリー全体にほぼ共通する魅力であり、国内ミステリーでは味わえないものなのである。


 スケール感の大小、と言ってもいいかもしれない。『余波』を1位にしなかったのは、このスケール感と関係していて、つまりもっとパワフルな感触のものを上位にしたのだ。1位のR・J・エロリー『静かなる天使の叫び』はアメリカ・ジョージア州が舞台の中心で、やはり連続少女殺人を扱っている。犯人捜しのプロセスが三十年以上にも亘るのである。この間、探偵役を務める主人公は作家志望の少年から本当の作家に成長する。自身が絶望の淵に何度も立たされながら必ず這い上がる執念深さと捜査プロセスが重なり合い、つまり地理的なものにとどまらず、時間の積み重ねによる主人公の情動のうねりに多くの読者は圧倒されるに違いない。

(つづく)